しのぶの病気を聞いた村西とおるは「わかった」と一言だけ
AVの鬼である村西とおるは、監督デビュー時代の1984年、「ベルサイユのばら」原作者・池田理代子や、「ひまわり娘」伊藤咲子を主役にイメージビデオを撮ったり、火野正平のライブビデオを撮ったり、「コーヒーショップで」のあべ静江を主役にドラマを撮ったりした(あべの降板で未完成に終わったが)。要するに、芸能人、著名人好きなのだ。
クリスタル映像でAVばかり撮るのでは飽き足りず、芸能人を起用したビデオを制作するようになった。それがクリスタル映像から分裂した遠因だった。
アイドルやモデルを売り出すにしては武骨な会社名「パワースポーツ」というレーベルをつくったのはわけがあった。クリスタル映像時代のパワースポーツビデオはバイク、4輪レースのビデオに特化したレーベルだったが、引き継いだ村西とおるはここから芸能人ビデオを発売することにしたのだった。既存のレーベルから出したほうが新たにつくるよりもカネもかからず煩雑な手間暇もかからないからだ。
あまたのプロデューサー、コーディネーターが村西とおるの元にやってきた。ところが吉永小百合級を落とせという高すぎる目標設定と、広域暴力団の元ヒットマンも「さすがのオレもあの男の迫力には負ける」と言わしめるほどの威圧感をもった村西とおるの元で、働く人材はなかなかいなかった。