本田圭佑「虚像と実像」(3)小4で“過剰な自信”を自覚
小学生時代、どこに行くにも3つ年上の兄・弘幸の背中を追った。プロ入りを嘱望されたサッカーエリートだった弘幸は、摂津二中卒業後はサッカーの名門・帝京高(東京)に進学し、レギュラーとして活躍。アルゼンチン3部リーグでプロとしてプレーしたこともある。
■飛び入りのお客さん扱い
厳しすぎる家庭環境の中、身近なライバル・弘幸に追い付き、そして追い越すためには、過剰とも思える自信を持つことが必要だった。そのことを本田は、小学4年の時点で自覚していた。
本田はサッカーのイロハを兄の通った摂津二中で学んだ。サッカー部顧問だった田中章博(62)にとって、小学生の本田は「飛び入りのお客さん」。田中が指導することはなかった。
いや、「しなかった」というのが正しい。
「圭佑は勝手に部活動に参加する小学生。私の生徒ではない。他の部員のように<ああしろ、こうしろ>と欠点を指摘し、指導する必要がなかった。これは圭佑にとって居心地が良かったと思う。失敗しても怒鳴られないし、いいプレーだけを褒められるわけやから。<おまえは小学生なのに凄いな>ってね。圭佑は、自信をつけることでメンタルを強くしていった。その過程において強気の姿勢を崩さず、あえて大言壮語することでメンタルをより一層、強いものにしていった。今にして思えば、あの時期、圭佑と私は理想的な関係だったと思います。仮に顧問と生徒の関係でいろいろと事細かく指導していたら、今の圭佑はなかったかも知れませんから」(田中)
小学生時代から中学生を相手に強靭なメンタルを育んでいった。不思議なことに“我の強いクソガキ”でも、年長者から「生意気」とのけ者にされることはなかった。
そこには今に続く、本田ならではの「処世術」があった。
(敬称略=つづく)