生き証人3人が語る 平成5年「ドーハの悲劇」の真実<前編>
都並敏史「北京から帰国した日本代表を待ち構えたマスコミ関係者は2人でした。優勝しても『2人しかいないんだ』とは思いましたが、そんなに意外な感じはありませんでした。当時、それが当たり前の光景でしたから」
六川則夫「それがアジア杯でガラッと様変わりしました。日本代表を応援する人たちでスタジアムが満員になりました」
森雅史「ダイナスティ杯の頃は、日本代表の帰国便の情報などは手に入りませんでしたから(熱狂的な日本代表サポーター集団である)ウルトラスのメンバーも出迎えるのが難しい状況でしたが、アジア杯は地元開催の大会でしたし、翌年のJリーグ開幕を控えて1992年のナビスコ杯人気も追い風となり、多くのファンが日本代表を応援する大会となりました」
都並「そのアジア杯ですが、サッカー人生の中でマックスのパフォーマンスを発揮できた大会でした。(読売クラブ/東京Vでチームメートの)ラモスさんに『オマエはアジアで最高のサイドバックだ!』と褒められて凄くうれしかった。(高校を卒業してプロ契約になっても)それまでは『冗談じゃないよ! (ユースに所属していた)高校の時よりもヘタクソになった!』と怒られてばかりでしたから。ラモスさんの叱咤を糧にしながらトレーニングを重ね、ついにラモスさんに褒められた! と非常に感慨深いものがありました」