生き証人3人が語る 平成5年「ドーハの悲劇」の真実<前編>
■レントゲンに写った黒い亀裂
Jリーグ開幕3試合目だった。ここから「ドーハの悲劇」へのカウントダウンが始まった。日本代表の不動の左サイドバック(SB)都並が左足首を痛めてしまう。その2カ月後、練習中に疲労骨折を負った都並は1993年の夏、Jリーグの残り試合の欠場を決意する。10月のW杯予選に照準を合わせ、リハビリに専念することにしたのだ。
森「都並さんの戦線離脱は、日本代表のサポーターにとっても最大の関心事でした。当時、W杯を目指している日本代表を全力サポートするため、勤務先(富士通)を退職しました。某テレビ局のドキュメンタリー番組の取材を受け、番組自体は最終予選初戦のサウジアラビア戦の日に放送されましたが、レギュラーである都並さんがケガに苦しむ姿も、番組の中でしっかりと紹介されました」
六川「最終予選の1カ月前(1993年9月)にスペイン合宿がありました。取材中に気になったのが<都並さんがふと見せる沈痛な面持ち>でした。いつもの都並スマイルが消えた! それからレンズ越しに都並さんの姿を追い掛けました。ある時、都並さんとチームドクターがピッチ上にいない。ピンときて練習場の施設の裏手に行くと2人が深刻な表情で話し合っており、都並さんの『痛えよぉ~』という声も聞こえてくる。オフト日本の生命線は<左FWの三浦カズ、司令塔のMFラモス、そして左SBの都並の3人が左サイドで形成するヴェルディ・トライアングルでした。その一角が崩れ、これは代表にとって大きなマイナスになるに違いない>と最終予選の行く末に一抹の不安を覚えました」