生き証人3人が語る 平成5年「ドーハの悲劇」の真実<前編>
1993(平成5)年5月15日。日本スポーツ界にコペルニクス的大転回が起きた。不人気にあえいでいた日本サッカーリーグ(JSL)が、プロリーグに装いを改めて「Jリーグ」が開幕したのである。爆発的な大ブームを巻き起こし、社会現象にもなったJリーグの初年度シーズンが終わり、さらにブームを後押しする一大イベントが待ち構えていた。1994年にアメリカで開催されるW杯のアジア最終予選が1993年10月に中東カタールで行われ、アジア出場枠「2」を目指して決戦の地ドーハに乗り込んだ日本代表の戦いを日本国民は固唾をのんで見守ったのである。しかし、その結末は……。今も語り継がれる「ドーハの悲劇」の生き証人であるオフト日本代表DFの都並敏史氏、カメラマン六川則夫氏、熱烈サポーター森雅史氏(サッカージャーナリスト)の3人が、平成の世になって5年目の出来事の深層をあぶり出す――。
◇ ◇ ◇
1992年4月にオランダ人監督ハンス・オフトが、日本代表初の外国人監督として指揮を執ることになった。オフトは同年7月のオランダ遠征でチームを固め、8月に中国・北京で行われたダイナスティ杯で韓国、中国、北朝鮮といった東アジアの強豪国を相手に優勝。10~11月に広島で開催されたアジア杯でも快進撃を続け、見事にアジアチャンピオンの称号を手にする。