オリックス1位・宮城大弥 南風原出身52歳父の波瀾万丈人生
1000円が180万円
しかし、帰国後は左腕の後遺症もあって、なかなか定職に就くことが難しかった。そんなある日、ふと通りかかった宝くじショップで、いくらかナンバーズを買った。1点200円を5点で計1000円。あくまで気休めで、特に数字を考えて買ったわけではなかったが、なんと1等180万円を的中させたのだ。
図らずも大金を手に入れた享さん。一瞬、遊びへの誘惑に駆られるも、こう考え直したという。
「これはあぶく銭だ。飲み食いして使い果たすくらいなら、人に貸してみよう」
迷ったら前に出る。享さんは、当せん金を元手に貸金業を立ち上げた。自営業者を中心に取引し事業は軌道に乗った。那覇市内に飲食店や沖縄拳法空手道の道場を開設するなど、事業を広げた。
「でも、良いときは長くは続きませんでした」
と、享さんは言う。
2000年代に入り日本の景気は底を打った。貸したお金が徐々に焦げ付き始め、会社が倒産に追い込まれてしまった。
「2001年に大弥が誕生し、4歳下の妹が生まれたばかりでした。さすがに心が折れそうになりました」(享さん)
今はレンタカー会社に勤める傍ら、興南高校野球部の寮監も務めているが、大弥が高校に入るまでは、苦しい生活が続いたという。享さんが振り返る。
「家族には本当に苦労をかけました。大弥が小学3年から中学3年になるまで6畳一間で暮らしていました。場所を取る冷蔵庫はベランダに置くような生活環境で、水道が止まったこともあります。大弥は中学に入って硬式野球を始めたのに、軟式用のグラブしか買い与えてやれなかった。中学3年時にU15日本代表に選ばれ、福島で行われた試合の遠征に行く際は、家に5000円しかなく、小遣いを3000円しか渡せなかった。すると大弥はこう言ったんです。『あっちにいけば、食べる物があるんでしょ? お金はなくても大丈夫だよ』って」
どんな状況でも、好きな野球に熱中し続けた息子が晴れてプロ入りをする。享さんはこんな覚悟を口にした。
「私にできることがあれば、何でもやってやりたい。もし万が一、(左腕の)大弥が肩や肘をケガするようなことがあれば私の左腕を使ってほしい。私は片手で十分。靱帯や腱、骨が使えるというなら、いくらでも使ってくれて構いません」
▽みやぎ・ひろや 2001年8月25日、沖縄県生まれ。4歳から野球を始め、小学校時代の志真志ドラゴンズを経て、嘉数中3年時にU15日本代表に選出。興南高では2度、甲子園に出場。今秋のU18では投打で活躍した。172センチ、78キロ。左投げ左打ち。