マラソン大会参加者減少の本当の理由 日本での火付け役・田中茂樹さんの死で改めて考える
たとえば、日本陸連は全国のマラソンを公認大会にすべくJMCシリーズを展開している。そもそも4時間、5時間の愛好家に公認記録が重要だろうか。非公認でいい、それより自由に走りたい──コロナ禍の中断が、市民ランナーにそう気付かせたのではないか。
マラソンは劇的に変わった。
日本のマラソンの火付け役だった田中茂樹さんが先月、亡くなった。1951年、19歳で日本選手として初めてボストンマラソンに優勝。この優勝がマラソンの〈お家芸〉への足掛かりになった。
戦後の日本はあらゆる分野で国際舞台から締め出され、陸上競技の復帰は51年3月のアジア大会(インド)から。酷暑で惨敗した翌月が、ボストンだった。いまでこそ毎年3万人も走る伝統の大会だが、その年の参加者は153人で、ボストンマラソンなど誰も知らなかった。それが、53年には山田敬蔵、55年には浜村秀雄と続き、ボストンを足掛かりに東京五輪へと向かった。田中さんの優勝が戦後復帰の象徴だったから導火線になったのだ。
■戦後の日本のマラソンは〈完走の美学〉に根差した持久走