WBCの源田やW杯の三笘が“ミリ単位”プレー 数字にできない魂を機械が証明する時代になった
審判だって間違いはある。人サマが作ったルールに絶対はなく、スポーツは常にさまざまな変化と向き合っている。タイブレーク、球数制限……反対の声も多いが、今季のメジャーリーグで話題の「ピッチクロック」も、テニスでは数年前から採用されてきた。
条件が変われば記録も絶対でなくなる道理だが、マスコミは相も変わらず、史上初とか歴代何位と声高に叫ぶ。記録はスポーツの重要な要素ではあれ、あくまで目安。かつて“記録の神様”といわれた宇佐美徹也は「最近の記録は語呂合わせだ」と嘆いた。本質を外れた数字に踊らされてはいけない。
テニスの審判は最大10人と書いたが最小はゼロ。ジュニアや一般大会で採用されている、選手自身が判断するセルフジャッジがそれだが、こうした試合に主審がついているのは日本だけ。年配の愛好家から国内の試合はつまらないと聞いたことがある。海外では相手のナイスショットが少し外れてもインにするのに、日本ではぎりぎりのショットはすべてアウト……。
勝ち負けの記憶は薄れ、感動的なプレーの印象はいつまでも残る。WBCがこれだけの共感を集めたのは、球速や飛距離の数字ではなく、ダルビッシュや大谷のガッツが見る者の留飲を下げたからだ。源田や三笘の数字にできない魂を、「機械」が1ミリで証明したわけだ。誰しも変化に抵抗はあるが、それを恐れてはいけないということだろう。