戦時中、海外に駐留する日本軍の慰問興行から芸能プロに
とはいえ、戦後に起業した⑤以外のプロダクションは、戦時中なんらかの形で軍の慰問興行に関わっている。満州事変以降、国家統制は芸能にも波及し、軍隊慰問が盛んに行われるようになっていたからだ。
たとえば、吉本興業も柳家金語楼を団長とし、横山エンタツ、花菱アチャコ、ミスワカナ・玉松一郎……からなる芸人派遣部隊「わらわし隊」を戦地に派遣している。中には女性漫才師の花園愛子のように、バスで移動中に被弾して亡くなっている芸人もいる。
上海で慰問興行を仕切っていた野口家は、日本人居住エリアである租界の中の映画館や大講堂で興行を催した。そこにはディック・ミネ(写真㊧)や淡谷のり子(同㊨)の姿があった。また、大衆演劇の一座を招聘し、清水次郎長や国定忠治を舞台狭しと演じていた。生前の野口修の証言がある。
「ミネさんはこの頃、租界に住んでいて、出番が終わるとウチで飯を食っていた。美人をはべらせていたのも覚えているし、俺がミネさんの膝の上で飯を食った記憶もあるよ」
また、淡谷のり子には小遣いをもらっていた。ただし、本人は後年「上海のことは少し記憶が抜け落ちているのよ」と告げたという。さらに興味深いのは、この時代に大衆演劇一座を率いて世界を渡り歩いていたのが、戦後、大阪の新歌舞伎座や、奈良と横浜で「ドリームランド」(遊園地)を経営した松尾國三だったことだ。野口家と旧知の間柄だった松尾は上海にも渡航し、租界の舞台に上がっている。それが野口興行部の主催だったのは察しがつく。
4歳から15歳までの11年間、野口修が少年時代に出会った彼らとは、戦後も付き合いは続いた。そんな彼が、芸能ビジネスに参入したのは自然なことだったと言っていい。
ただし、参入した理由はそれだけではなかった。一人の女の存在があったのだ。 =つづく