五木ひろしの光と影<8>23歳の「三谷謙」は「全日本歌謡選手権」出場を決意する
たとえ実力が劣っていたにせよ、「君の悪い点はここだ。次はこういう注意をして勉強しなさい」などと、どうして励ましてやることができないのだろう。きびしい意見はいいが、それだけではあまりに温かさがなさ過ぎる》(1971年5月20日付/読売新聞)
そんな「全日本歌謡選手権」にプロ歌手の三谷謙が出場したのは1970年晩秋のことである。彼自身はこの時期、弾き語りで高給を得ており「こういう歌手生活もありかな」と世の中を達観した気になっていた。にもかかわらず、厳しさが売りの「全日本歌謡選手権」に応募のハガキを出したのは、心のどこかに「このままでいいのか」と自問自答していたからとみていい。「俺は流しをやるために、田舎から出てきたのか、これが子供の頃の夢だったのか」と思ったに違いない。
かつて同じレコード会社に在籍した1年先輩の都はるみは、「アンコ椿は恋の花」の後も「涙の連絡船」「好きになった人」と次々とミリオンヒットを達成し、流行歌手どころか日本を代表する歌手のひとりに数えられていた。連日華やかなスポットライトを浴びる大スターの都はるみ。片や夜の街をギター片手に歩いて「1曲いくら」でお金を得る弾き語りの三谷謙。ともに「コロムビア期待の星」だったはずなのに、どうしてここまで差がついたのか。そのことも脳裏をよぎったことだろう。