中村敦夫さんが語り尽くす俳優、作家、政治家…華麗なる遍歴の84歳が語る「悟りが来た」とは?
2004年の参院選でスッテンテンに
キャスターをやっていれば、政治的な発言もするようになります。90年代に入って、自民党がダメで日本新党や新党さきがけができたりで、僕に目をつける人が出てきたわけです。さきがけの田中秀征や武村正義が一緒にやらないかと言ってきた。話を聞くと、行政改革とか環境問題とか自民党にはない新しい視点を持っているグループということがわかった。
それから付き合いが始まり、政治の世界に入っていき、挙げ句は候補者が足りないのでさきがけから参院選(95年)に出てくれないかというわけです。選挙の世論調査はいつも1位。まさか落ちると思っていなかった。ところが、惜敗になってビックリです。
それで冷やかしで出たみたいに思われるのはシャクだから、シャレや冗談で出たわけじゃないことをわかってもらうためにはもう1回出るしかない。98年の参院選に立候補。その時は若手が民主党をつくり、さきがけは分裂して残っていたのは年寄りが5、6人。結局ダメになり、一人でやるしかなくなった。東京選挙区から無所属で立って当選しました。政治的には変なことになっちゃって、恵まれなかったですね。
次の04年の参院選は比例区で全国区の選挙をやりました。その頃、正面に据えて取り組んだのが環境問題です。ただ、当時の日本ではまだ相手にされなかった。アメリカのゴア副大統領は環境主義者で、地球温暖化問題が大きな流れになるのは2、3年後のこと。まだ早かったんですね。
「みどりの会議」として全国区で候補者を10人立てました。結果は党が60万票、僕が20万票、あと9人で10万票、90万票でした。環境問題に取り組む市民運動家に立候補してもらったけど、知名度がないですから、仕方がないですね。6年前の票があるから選挙区で僕が一人で立ったら勝てたと思うけど、党派としては敗北です。
悔しかったのは新聞には「諸派」なんて書かれて、立候補したことすら浸透しなかったこと。やっていることをどこも報道もしてくれなかった。大政党所属なら20万票くらいで当選している人もいたから、選挙制度にすごい差別があると感じましたね。
しかも、供託金が1人600万円、10人で6000万円、それが全部没収された。その他に10人分の選挙費用。終わった時にはスッテンテンでした。そのためにいろんなものを処分しました。選挙は今の制度のままでは何回やっても無理と諦めました。ものすごく体力的にも気力的にも消耗したし、経済的にも追い詰められた。それが60代半ばです。
その後は仏教に興味があるので、インドへ行ったり、大学で研究したりしながらぼんやり過ごしていました。そこへ日本ペンクラブから誘いがあった。環境委員会があるけど、委員長をやってくれないかと言われ、引き受けることになった。それが08年。その3年後に起きたのが東日本大震災の原発事故です。何かやらなきゃいけないというので、福島やチェルノブイリで団体視察をやり、発言を続けた。個人的には、「線量計が鳴る」という朗読劇を思いつくわけです。朗読劇なら僕一人で回れるし。
それを95回やった時点で今度はコロナ一色になります。100回を超えるかというところで止まっちゃった。コロナ後再開の話もあったけど、4年近く経過して、この年になって2時間立ちっぱなしはきつい。それならというので、周囲からDVD化したらどうかという話が持ち上がった。プロのスタッフが結集し、クラウドファンディングで集めたお金で3000枚作りました。
最近は原発に批判的な報道が下火になったけど、実際に原発問題に取り組んでいる人たちにとっては深刻な事態が起きている。そんな中で、DVDと僕のショートスピーチをセットにした上映会を全国で展開する話が決まったばかりです。6月22日に専修大学の黒門ホールで1回目をやることになっています。うまくいけば全国ツアーとして続けていきます。