「ゲゲゲの娘」原口尚子さんに聞いた…水木しげるが望んでいた世界と現実
原口尚子(水木プロダクション取締役)
8月15日は終戦の日。戦後79年を経たこの国の平和な日常は不透明さを増している。「ゲゲゲの鬼太郎」など妖怪物で知られる漫画家の水木しげるさん(2015年死去)は、過酷な戦争体験に基づく戦記漫画も多く残した。作品に秘めたメッセージを改めて噛みしめたい。水木しげるさんの長女で、水木プロダクションの取締役を務める「ゲゲゲの娘」に聞いた。
■飛び起きて「ここはラバウルか?」
──21周年を迎えた「水木しげる記念館」(鳥取県境港市)を4月にリニューアルオープンしました。
水木の戦争体験をより大きく取り扱うことにしました。以前は妖怪にフォーカスを当てた部分が大きかったのですが、水木の人生は妖怪漫画だけじゃないよと。それに、太平洋戦争を兵隊として体験した漫画家は限られると思います。例えば、手塚治虫先生は当時は若くて、召集されていないんですよね。
──南太平洋の最前線のニューブリテン島・ラバウル(現パプアニューギニア領)に出征しました。
水木は93年間生きて、60年ほどを漫画や紙芝居などの画業に費やしましたが、最も鮮烈に覚えているのが戦争体験。実際、亡くなる前などは当時のことばかり話していました。寝ていても、パッと目覚めて「ここはラバウルか?」と大真面目に言うことがありました。夢にもしょっちゅう戦友が出てきたようです。私の母が隣で寝ていたら水木の「おい!」という叫び声で目覚めたのですが、戦友に話しかけても全然返事をしてくれない夢を見ていたそうです。
──苦しいですね。
ラバウルは物凄い激戦地でした。より前線に近いズンゲンにいたので、仲間が次々と亡くなるんです。「仲の良かった人や、親切でいいやつほど早く亡くなる」と話していました。教官に理不尽に殴られたり、酷いことを言われることもあった。人に対する信頼感といった部分が根底から覆され、人生観そのものが大きく変わってしまったようです。
──具体的にはどんなことが?
最も象徴的なのが、ズンゲンから100キロ離れた敵地バイエンでの出来事です。所属部隊の中から10人が選ばれ、敵地に行かされました。そこで水木が明け方に見張りをしていた時に急襲され、寝ていた仲間は全滅してしまうんです。水木はそのまま海に逃げ、ズンゲンになんとか戻りました。仲間は「よく戻って来た」と歓迎してくれたのに、上官から「なんで生きて帰って来たんだ! みんな死んだんだからおまえも死ね!」と言われたそうです。その一言がすごくショックで、人間が信じられなくなってしまったと。しかも、その上官には「おまえの死に場所はそのうち見つけてやるから」と言われていたとか。
──爆撃で左腕を失ってしまったものの、生還されました。
バイエンから逃げる際に大量の蚊に刺され、マラリアにかかってしまったんです。それで寝込んでいたところ爆撃を受けて負傷し、左腕を切断するために野戦病院に入ったことで、生きて帰ってこられたんです。水木はよく「左腕をなくして絶望しなかったんですか?」と聞かれていたのですが、どこで死んでいてもおかしくなかった体験をしているので「何言っているんですか! もう生きているだけで幸せだ!」と言っていました。水木にそう思わせるくらい、たくさん戦友が亡くなったし、誰かが死ぬのが当たり前のところで過ごしていましたからね。