川崎球場のトイレは「戦時中の刑務所便所」…ガラガラのスタンドでは麻雀、焼肉、流しソーメン
入団1年目の私は当初、電車通勤をしていた。若手が暮らす選手寮は、埼玉・浦和にあったが、川崎でホームゲームがある時は、東京・大森のビジネスホテルに宿泊する。球場最寄りの川崎駅まで京浜東北線で10分程度と近いからだが、試合後に駅に向かうと、ファンがついてきてしまい、困った。
今でこそ川崎駅周辺は整備されているが、当時は歓楽街もあって、昼間から酔っぱらいが多い街だった。「おい初芝、何であの時打たなかったんだ?」とか「何でエラーしたんだ?」などとヤジられながら、夜の歓楽街を抜け、川崎駅まで一緒に歩かないといけない。仕方ないから、いつもより速く歩くか、走って逃げるしかなく、試合後の疲労をさらに増幅させた。私は1年で電車通勤をやめ、車通勤に変えた。
入団から5年間は背番号「0」だった。プロ野球では83年に広島で初めて登場した背番号。この時の長嶋清幸さんがブレークしたことで他のチームにも普及した。ロッテで初めてつけたのは坂巻明さんで、二松学舎大付高の先輩だ。89年にドラフト4位で入団した私は、この年に引退した坂巻さんの「0」を受け継ぐことになり、感慨深いものがあった。1年目から出場機会をもらえたこともあって、この背番号に愛着があったが、チームが千葉へ移転して2年目の93年に「0なんて背番号じゃねえ!」と異を唱えた人がいた。(つづく=16日17時公開予定)