協約違反で契約無効になった小島弘務を巡る根本陸夫流「親分の後始末」
1989年12月、西武はドラフト外で投手の小島弘務(現・浜松修学舎高監督)を獲得した。鈴木にとっての「隠し玉」だった。
平安高(現・龍谷大平安)から駒大へ進学するも、1年夏に中退。その後、かつて和歌山を拠点にした住友金属(当時)に入社していた。
契約金4500万円、年俸450万円。ドラフト外としては高額の契約になったのは、西武がドラフト指名選手との差をつけなかったこと、小島を上位指名と同等の評価をしていたからだった。
西武はドラフト外で多くの逸材を獲得し、黄金時代を築いた。鈴木も「いかに下位や外でいい選手を取るか」ということに心血を注いだ。
鈴木は住金入社直後の小島の投球を見て、その才能に惚れた。そして89年に入って元監督の山中正竹氏(現・全日本野球協会会長)を大阪の住金ビルに訪ねて、指名の挨拶もした。
他球団も獲得調査を進める中、89年12月に契約をまとめて入団会見。日本野球機構(NPB)にも書類を提出した。90年2月の高知・春野キャンプ(B班)では阪神二軍との練習試合に登板。順調にプロの水に慣れてきた中、一部スポーツ紙が西武と小島との契約を「協約違反」と報じる大騒動に発展した。