敗色濃厚の太平洋戦争末期の1944年正月 軍部の命令に背いてプレーボール、空襲に遭いながら8試合
結果は猛虎が7勝1敗と圧勝した。5日間10試合の予定が8試合に終わっているのは、空襲に遭ったのが原因だった。3日の第1試合の五回裏、猛虎の攻撃中に米軍機が飛来して攻撃を受け、中止に追い込まれた。第2試合もできなかった。
あちこちの都市が空襲で逃げ回っている暗黒のときに、野球をやめなかった選手たちと、各球団の幹部の心意気はたいしたものだった。入場料を取ったものの、微々たるもので「餅代にもならなかった」そうである。
その後、甲子園はイモ畑に変わった。しかし、8月の終戦までに育たず収穫なし。知る人はほとんどいない歴史に埋もれた正月大会だった。