「絵で見る ニッポン銭湯文化」笠原五夫著
銭湯は昭和40年代、全国に約2万3000軒あったというが、現在は約3000軒まで減少。本書は、銭湯一筋に生きた新宿の「松の湯」の元主人(昨春逝去)が、そんな日本の貴重な銭湯文化を自ら描いた絵を添えて記録・解説したイラスト・エッセー。
銭湯の歴史は、家康が江戸城に入城した翌年の天正19(1591)年、伊勢出身の与一という男が江戸で湯屋を開いたことに始まる。江戸は風が強くてホコリが激しく、江戸っ子たちは毎日入浴する習慣があったが、大火による薪・炭の高騰や水不足で、大町人でも内風呂が禁止されていた時代があり、銭湯が繁盛。当初は「柘榴口」と呼ばれる蒸し風呂だったが、次第に湯船につかる形態へと変化した。人々が集まる銭湯はまた、情報交換の場でもあったという。
氏は、故郷の新潟に疎開してきた人の話から銭湯に興味を抱き、昭和27年、親に内緒で上京。そのまま銭湯の住み込みの小僧として働き始める。朝9時の釜掃除から始まり、燃料集めや集めた燃料の加工、そして毎晩100個の桶を磨く閉店後の掃除など、午前2時まで働き通しだった当時の銭湯の一日を振り返る。
江戸時代の流し場は板の間だったため、汚れるとぬめりが生じる。それを取り除くのに唐笠の竹骨と砂で洗い落とすため、掃除は重労働だった。タイル張りになっても、大きなたわしを両手に持って這いずるように床を掃除していたが、やがて電動ポリッシャーが登場し、そうした重労働から解放されたという。
昭和30年前後、女性はみな髪が長く、銭湯で髪を洗う場合、15円の入浴料とは別に10円の洗髪料が必要だった。
10円を払った客は領収書代わりの「髪洗券」を流し場に持ち込んで、洗髪専用の背の高い桶で髪を洗っていた。髪洗券の他に、20円を払って番頭に背中を洗ってもらう「流し券」というものもあった。
この「流し」の仕事、冬場など流し場と釜場を行き来するため、湯水と冷気で指の先や足の裏が割れて血が流れるほど、実は過酷だそうだ。
そうした歴史や風俗を、当事者ならではの描写力で絵にした作品は、趣味とは思えぬ出来栄えだ。
中には、お客さんからいただいた写真を基に描いたという、女性の背中いっぱいに彫り込まれた美しい入れ墨を再現したなまめかしい作品などもある。花街の銭湯では、入れ墨をした女性客も多かったのだそうだ。現代とは隔世の感がする。
その他、新潟・富山・石川3県の出身者が9割を占めるという東京の銭湯経営者たちのルーツや、近隣の子どもたちのしつけの場でもあったもうひとつの役割など、町中から次々と姿を消していく銭湯を、さまざまな視点から描き残した力作。(里文出版 2000円+税)