「洋装の日本史」刑部芳則氏
日本人が洋服を着るようになったのは、幕末にアメリカからペリーが来航し、開国してまもなく? などと思う人が多いのではないだろうか。しかし、それは間違い。
■洋服ではなく「夷服」と呼んだ時代も
「最初に洋服を着た日本人は、1840年代に船が遭難してアメリカの捕鯨船に救出された土佐藩の漁民、中浜万次郎らのようですが、これは特例です。幕末に採用された洋服は、外国と戦うための軍服と、海外渡航時の旅行服に限られ、一般の生活の中には皆無でした。明治新政府の発足時にも特に議論されず、洋服は『夷服』などと呼ばれていました。『夷』はケモノの意味。鬼や魔物と感じる外国人と同じような洋服を着たいとは思わなかったのでしょう。洋装化が始まったのは、明治4年7月の廃藩置県の後。同年8月、散髪、脱刀と共に洋服が許可されてからです」
歴史学者の著者が、数々の1次史料にあたり、時代背景や理由を踏まえて、幕末から昭和50年代までの洋装の歴史をひもといたのが本書だ。
洋装が始まるのが廃藩置県の後であることには、必然性がある。
「五箇条の御誓文に『広く会議を興し、万機公論に決すべし』とあるものの、公家、藩主、藩士という身分意識が強く、下位である旧藩士たちは旧藩主や旧公家たちに遠慮が必要だったんですね。旧公家は天皇から与えられた位階によって色が異なる衣冠や狩衣を着ているから、ひと目で分かる。まげの形も、武士と異なっていました。外見から身分の差をなくすために、洋服及び散髪・脱刀が採用されたんです。公武合体の中、いわば国家の制服を洋服にしたわけです」
翌明治5年、洋式の「文官大礼服」が採用され、日本の礼服の洋服への変更が世界に宣言される。巷でも政治家たちに続けとばかり、洋装化が進み始めるが、その当時「洋服」と表現されなかったのが面白い。
「明治天皇が臣下たちに服制変革の趣旨を説明した文書『服制変革の内勅』に、洋服とは書かれていません。古代に戻るのだと。つまり、西洋の服を取り入れるのではなく、日本古代の『筒袖』『細袴』に戻るのだという体にした。外国人への嫌悪感や攘夷思想を持ち続けている人も大勢いたから、このロジックで洋服への反対論を抑制しようとしたんですね」
一方、女性の洋装化は、男性より遅れること15年。明治19年に美子皇后が洋服姿を初めて見せ、翌20年の新年式に洋式大礼服を初めて着た。そして女性が洋服を着ることを正当化する理由を「思食書」に、「一枚につながった着物から、上下に分かれた構造の古代の服装に復古する」との趣旨で書き、一般の女性の洋装化に正当性を与えた。
しかし、コルセットで腰を締め付けるため、身体的に苦しい上、高価、活動的でないという「三重苦」。大正8年、合理的生活を追求する生活改善運動に連動して「服装改善運動」が起こり、着やすさ、求めやすさが追求される経緯をたどる。
ほかにも、セーラー服は大正10年に名古屋の金城女学校に初登場だったことや、モンペやズボンは戦中を生き抜くための「決戦服」だったことなど、知ると誰かに語りたくなるネタが詰まっている。
(集英社インターナショナル 1089円)
▽刑部芳則(おさかべ・よしのり) 1977年、東京都生まれ。日本大学商学部教授(日本近代史)。NHK大河ドラマ「西郷どん」で軍服・洋装考証、NHK連続テレビ小説「エール」で風俗考証を担当。著書に「明治国家の服制と華族」(日本風俗史学会江馬賞受賞)、話題になった「セーラー服の誕生」など。