「満洲国の近代建築遺産」船尾修著
「満洲国の近代建築遺産」船尾修著
1932年に日本が中国東北部に建国した傀儡国家「満洲国」(~1945年)では、スケールの大きな都市開発が進められ、日本人170万人が移住した。
本書は、この地域に今も残る日本人による建築物を撮影した写真集。
著者が、満洲に関心を持ったきっかけはフィリピンでの取材だった。日本軍はフィリピンで52万人もの戦死者を出したが、その多くは餓死や病死だった。
この無謀な戦争に日本軍を駆り立て、国民にも広く共有されていた「神国である日本が負けるはずがない」という根拠のない自信や思い込みは、どこからきたのか。それは日清・日露戦争の勝利から満洲国建国へといたる成功体験によって醸成されたのではないかと思い至り、そして、「満洲」での撮影を通じて、それは確信に変わったという。
かつての満洲の首都で新京と呼ばれていた長春には、満洲国の全権を握っていた「関東軍司令部」(写真①)だった建物が今も残る。
名古屋城の天守閣を模したといわれる屋根をのせた巨大な帝冠式建築で、現在は中国共産党吉林省委員会が使用している。
ほかにも長春には、日本の国会議事堂を模した満洲国政府の中枢「満洲国国務院」(表紙)や、独特なフォルムの「満洲国総合法衙(合同法院)」、満洲国皇帝・溥儀が過ごした「緝熙楼」や「勤民楼」などの仮宮殿と終戦で未完のまま終わった「新宮殿」、「満洲映画協会」(写真②)など、公的機関や歴史にその名を残す組織の建物が数多く残っている。
中には貸しビル「三菱康徳会館」や、「東京海上新京ビル」などおなじみの日本企業の建物や、「東本願寺新京別院」などの寺院まであり、そのどれもが重厚な贅を凝らした建物で当時の満洲国の「繁栄」ぶりがうかがえる。
日露戦争に勝利した日本は、大連では帝政ロシアが進めていた都市計画を引き継ぎ、直径700フィート(約213メートル)のニコライエフスカヤ広場を「大広場」(写真③)と改名し、街の中心地とした。
その大広場に面して、「大連市役所」や、満洲一の格式を誇った「大連ヤマトホテル」、バロック様式のドームが印象的な「横浜正金銀行大連分行」など、時代を超越した美しいデザインの巨大な建物が当時のままの姿で残っている。
ほかにも、日露戦争の激戦地「二〇三高地の記念碑」、ハルビンにあった「七三一部隊跡」などの戦跡をはじめ、奉天と呼ばれていた瀋陽の「張作霖爆殺事件現場」や「柳条湖事件(満洲事変)現場」などの歴史の舞台、そして関東軍が中国人を収容する監獄として建設したが、戦後は日本人捕虜が収容された「撫順戦犯管理所」など地方の建築物まで、約400件をめぐる。
どこにも存在しない先進的な国づくりの夢は、日中戦争から太平洋戦争へと突き進んだ日本の戦費調達のために費用が枯渇し、夢半ばで頓挫する。
残された建物から、満洲国とは何だったのかと歴史を見つめる力作。
(集広舎 8800円)