母・光子さんの陰で…フィルムに焼き付いた宮沢りえの“闇”
平成3年の1991年10月の朝、新聞をめくっていたサラリーマンは全面広告に目を留めた。18歳のアイドル、宮沢りえの写真集「Santa Fe」。樋口可南子の「water fruit」でこの年から始まったヘアヌード写真集をブームにし、150万部を売り上げる社会現象にしてしまった。
りえは当時18歳。りえママこと光子さんのプロデュース、マネジメントで「一卵性母娘」とも呼ばれ「ふんどしカレンダー」など奇抜なアイデアで話題の中心にいた。翌1992年に角界のアイドル貴花田と手をつなぎ、婚約会見を開く。しかし、それはわずか数カ月で破談に。貴が心酔していた整体師の医院が四谷にあり、そこで「嫌いになった」とりえに言うよう貴は促されていた。
「残念です」
いつも元気いっぱいのりえが会見ではうつむき、唇をかんでいた。この後、りえはビートたけし、先代・勘九郎、市川右近らとすったもんだしていく。はるか年上の男たちばかりを選んだのは、誰かに支えて欲しかったのだろう。
■たけしとの深夜デートに駆けつけると