タモリが「国民的スター」になる前の話 生き証人に聞いた
坂田「73年に大分でコンサートがあり、そのときが初対面でした。コンサート終了後にタモリとメンバー3人、マネジャーの柏原さんの計5人で街を歩きながら、タモリが道端の看板という看板をいい加減な中国語や韓国語で読み上げる。これがとにかく面白くて面白くて体を“くの字”に折り曲げて爆笑しながら歩いた。抱腹絶倒でした」
平野「山下さんたちが常連だった新宿・歌舞伎町のバー<ジャックの豆の木>で『タモリさんを東京に呼ぼう』という機運が高まったワケですね」
坂田「店内で帽子を回して(タモリさんの旅費など)カネを集め、ジャックで常連客を30人ほど集めてタモリに芸をやってもらった。だからシモキタ・ロフトでやったステージよりも前の話です」
平野「ええっ! 本当ですか。てっきりウチが初舞台だと……」
山下「タモリは自然体で思いっ切りブラックなネタをやっていた。ジャックの次は青山のライブハウス<ロブロイ>だね」
平野「ええっ! じゃ~ウチは3番目!」
坂田「そうそう。ジャックのときから漫画家の赤塚先生がいた。タモリさんを『こんな面白いヤツを福岡に帰すわけにはいかない』と目白の高級マンションに住まわせ、自分は下落合の仕事場でひっくり返した本棚の上にマットレスを敷いて寝ていた。赤塚先生は<何とかタモリさんを売り出そう>と頑張っていた。今のタモリさんがあるのは山下さん、赤塚先生、あとフジテレビ<笑っていいとも!>などを手がけた高平さんでしょう」