「博多っ子純情」長谷川法世さん 地元福岡でライフワーク
長谷川法世さん(75歳・漫画家、脚本家)
チューリップ、海援隊、長渕剛ら福岡出身のミュージシャンが一世を風靡した1970年代後半、博多を舞台にしたコミックが人気を呼んだ。NHK連続テレビ小説「走らんか!」(95~96年)のモチーフにもなった「博多っ子純情」(76~83年、週刊「漫画アクション」連載)だ。描いたのは長谷川法世さん。さて、今どうしているのか?
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「7月に予定していた博多祇園山笠の『舁き山』は、新型コロナの感染拡大防止のため昨年に続き今年も延期が決まりました。毎年7月15日夜明け前にスタートする『追い山』もです。飾り山は奉納するとですが、こんな残念なことはなかですね」
長谷川さんと会ったのはGW前。福岡市の名所・櫛田神社そばにある「博多町家ふるさと館」だった。2003年から2代目館長を務めている。
同館は、明治・大正期を中心に博多の庶民や職人の生活を紹介する観光施設。文化や歴史の展示、伝統工芸品の実演を見ることができる展示棟、明治中期の博多織織元の住居兼工場の町家棟、土産物販売の3棟から構成されている。
「町家棟は、俺の小学校の同級生、三浦さんの実家で、福岡市の指定文化財なんですよ。俺の実家もこの近所。萬行寺前町(現冷泉町)で旅館ばしとったとですよ」
長谷川さんは地元・福岡高校を卒業後、大学受験のため上京。以来、40年間ほど都内と千葉県内に住んでいたが、館長就任に伴いUターンした。
「いずれ地元に戻ろうと思っとったけん“渡りに船”でした。さすがに館長が千葉から通うってワケにはいかんでしょ。アハハハハ」
新型コロナの影響は山笠だけではない。同館も緊急事態宣言のため6月20日まで臨時休館となった。
「一昨年までは約15万人もお客さんが来てくださり、一年中賑わっとったのに、昨年3月以降は日に数人ってこともありますけんね」
手をこまねいてばかりではない。4月から講師に筑前黒田家文書を読む会・前会長の天本孝久氏を招き、長谷川さん司会進行で「古文書はじめて講座」をウェブ会議サービス「Zoom」で開講。新型コロナ対応の一手だ。
「次は6月26日を予定しています。ご興味がありましたら当館のHPからお申し込みください」
真正面から方言を用いた画期的な作品
さて、長谷川さんの代表作「博多っ子純情」は、76年に連載がスタート。当時、セリフが全部博多弁なのが衝撃的だった。
「75年に高知のカツオ釣りを主人公にした『土佐の一本釣り』(作画/青柳裕介)が小学館の『ビッグコミック』で連載を始めていたものの、セリフは標準語なんですよ。博多を舞台にする以上、博多弁以外は考えられなかったですね」
「海援隊」のヒット曲「母に捧げるバラード」(73年)には博多弁の歌詞があるが、コミック的な要素が強い。真正面から方言を用いた画期的な作品といえよう。
「何が苦労したかって、一番は生徒の顔ですよ。1クラス40人として、一人一人描き分けなきゃならんし、時には席替えもせにゃならんでしょ。いちいち描いとったら締め切りに間に合わんから、顔の絵を切り貼りして四苦八苦しましたよ(笑い)」
本作の大ヒットにより78年に松竹が映画化し、主役に抜擢されたのが、その頃は現役高校生だった光石研。まさにシンデレラボーイだった。
その後も「ぼくの西鉄ライオンズ」「がんがらがん」など福岡を舞台にした連載が人気を集め、80年には第26回小学館漫画賞受賞、博多町人文化勲章を受章。
また、89年には週刊誌「サンデー毎日」で永田町にうごめく政治家をテーマにした「荒凉たる野望」を連載。国会議事堂そばの喫茶店で打ち合わせした際、担当編集者が「ここで〇〇先生を殺してください」と依頼したのを聞いたウエートレスが勘違いし、大騒ぎになったこともあったという。
福岡市に転居後、04年に九州造形短大・客員教授に就任。17年に退職するまで「マンガ研究」などの講義や卒業制作の指導に当たった。
「ただ、老眼がだんだんひどくなり、漫画を描くとか細かい作業ができなくなってきました。これからは博多出身の明治時代の興行師・川上音二郎の業績を広く知らしめる仕事をライフワークにしたいですね」
生涯、博多人。長谷川さんに似合う言葉はほかにない。
(取材・文=高鍬真之)