自身の呪いを解くために費やした DJ松永の4年間に及んだ世界一への挑戦
やがて地元・新潟のクラブDJとして活動。当時、世界最大のDJ大会「DMC」に同郷のDJが出たため、見に行って、その技術の高さに衝撃を受けた。「独学では越えられない大きな壁」を感じた松永は、本格的にDJ技術を学ぶようになっていった(リクルート「SUUMOタウン」2021年3月18日)。
新潟のクラブDJだけでは食べていけなかった松永は上京。しばらくは東京に馴染めず2~3カ月に1度、ノーギャラのイベントに呼ばれる程度で、ただバイトに明け暮れるだけという生活が続いた。
転機となったのはR-指定と組んだこと。その頃からR-指定は「神童」などと呼ばれ、既に一目を置かれた存在。組んだ時点で「格差」があった。R-指定はDJとしての松永を尊重してくれるが、周りはそうではない。
「自分自身の余裕のなさ、心の狭さで、フラストレーションが溜まることが正直かなりあった」(blueprint「Real Sound」20年11月19日)
「3連覇のR-指定」に対し、自分は「ただの松永」。そんな「呪い」を解くために一度は挫折した「DMC」に挑戦した。2016年、これまでの経験の全てを注ぎ込んで臨むも、結果は2位。Creepy Nutsの活動が軌道に乗った翌年も3位。松永はひとりドン底だった。それでも挑み続けて19年、ついに日本一に。そのまま、世界の頂点に立った。
今では「呪い」は解け、「R-指定に仕事がくるのはもちろん昔からうれしかったんですけど、今はさらにピュアに、R-指定が評価されることに対して喜びを感じるように」(同前)なった。高め合う2人には「のびしろ」しかない。