2年春のセンバツで打った一発が僕の孝行初本塁打でした
当時はまだ、そのレベルだったのです。
しかし、自信とは怖いものです。甲子園で初の本塁打を打ってから、練習でも自分で驚くくらい飛距離が伸びました。3年になった89年春の甲子園は1試合2発を含む3本塁打。上宮は決勝まで進んだものの、延長戦の末に愛知・東邦に敗れました。2─1と1点を勝ち越した延長十回、2死走者なしからエラーが絡んでの逆転負けでしたから、柄にもなく涙が止まりませんでした。
この頃からです。「超高校級内野手」とか「甲子園のアイドル」とマスコミに大きく取り上げられるようになり、自分で消化できないくらいの注目を集めるようになりました。自慢じゃありませんが、学校の校門前には常に何十人もの女子高生や女子大生が待ち受けていました。朝、実家の豊中から高校のあった上本町までの約40分の電車通学の間も周りは女子高生ばかり。中には、オッ、と思う好みのタイプがいても、学生服の中には何通もの手紙が押し込んであり、目当ての子がどの手紙の主か分からない状態。携帯電話もプリクラもない時代ですからね。今思えば、あの頃が一番のモテ期でした。