2年春のセンバツで打った一発が僕の孝行初本塁打でした
上宮高校では1年春からレギュラーになりました。同期では、のちに中日に入団する種田仁(元楽天コーチ)と2人だけ。練習はきつく、先輩からの風当たりも強い。なにより、当時の山上烈監督が鬼のように怖かった。調子に乗りやすい僕の性格を見抜いていたのでしょう、勝ったときほど鉄拳が降ってきました。先輩から、「監督は勝って兜の緒を締めるタイプだぞ」と聞いていましたが、僕からすれば、兜の緒で首まで締める、といった感じ。当時は「いつやめようか」とそればかり考えていました。
正直、自信を喪失していたということもあります。1年でレギュラーになったものの、上級生とのレベルの違いを痛感していました。1年夏の大阪予選で対戦した、その年のセンバツ優勝校PL学園の野村弘樹さん(元横浜)、橋本清さん(元巨人)の球を実際に打席で見たときは、「はっ、速えぇ」とバットに当てるのが精いっぱい。2学年上の相手とはいえ、「これが全国レベルか」とため息しか出ませんでした。
最終的に僕の甲子園通算本塁打は6本。13本の清原和博さんに続き、桑田真澄さんと並ぶ歴代2位タイの数字です。憧れのKKと一緒に名前が残っていることは光栄ですが、2年春に放った甲子園第1号が実は、僕の高校1本目。それまでは公式戦はおろか、練習試合でも紅白戦でもホームランなど打ったことがありませんでした。