コロナ禍で日本代表のチーム作りは白紙に戻ってしまった
チーム作りは「白紙に戻った」と言っても過言ではないだろう。
■難局は「オールジャパン」で乗り越えるしか
過去の五輪代表は、まず3月のインターナショナル・マッチデーに開催される強化試合をこなした後、5月下旬から6月上旬にかけてフランスで開催されるトゥーロン国際大会に参加し、そこで選手の見極めを行ってきた。そして五輪にエントリーする18名をOA枠3人を含めて発表。五輪本番に臨むのが常だった。
例外として、前回のリオ五輪が挙げられる。
当初は現地ブラジルで合流するはずだったエースFW久保裕也(当時はスイス1部のヤングボーイズに所属。現在はアメリカMLSのシンシナティ)が、所属先の主力FWが故障したことでGMが五輪出場に難色を示した。当時、JFAの技術委員長だった霜田正浩氏(現J2山口監督)は、キャンプ地であるブラジルのマナウスから「100回電話しても出ない」(霜田氏)ため急きょ、スイスに飛んで直接交渉に臨んだ。
しかし、久保の招集はかなわず、バックアップメンバーとして帯同していた鈴木武蔵(現札幌)と入れ替えざるを得なかった。五輪メンバーのエントリー締め切りの前日、水面下で綱渡りの交渉が繰り広げられたのである、