若林、杉浦はプロ入りを断念して五輪に野球人生を懸けた
なかでも若林は、私の母校・佐伯鶴城高の出身で、内野手として社会人ベストナインに史上最多の6度選ばれた押しも押されもせぬミスター社会人。バルセロナ五輪では主に5番を担った。
面談時は24歳。立正大卒業後、89年に日本石油に入社して3年目を迎えていた。複数のプロ球団が注目していたこともあり、若林は「プロへ行くなら、今年が最後のタイミングになると思います」と言って、ずいぶんと悩んでいた。高校時代の同級生でソウル五輪メンバーの野村謙二郎(駒大→広島)がプロ入りしたことも大いに刺激を受けていたはずだ。
それでも若林は凍結選手として五輪を選んでくれた。結果的にプロ入りはかなわず、「監督はあのとき、プロに行くなと言いましたよね」と冗談を交えて話をしたこともあった。
後に所属先の日石で監督、社会人代表のコーチも務めた。当時の日本代表には、若林や杉浦のようにプロ入りを断念してまで、五輪に野球人生を懸ける選手がいた。 (つづく)