新庄剛志のメジャー志向を探るために頼ったのは、ロッテの黒木知宏だった
大慈彌功(元メッツスカウト)#1
2000年11月、日米野球終了後、わたしは新庄の携帯電話を鳴らした。
その年、いずれもキャリアハイとなる打率.278、28本塁打、85打点をマークしてFA権を取得。残留を望む阪神はもちろん、他球団も獲得に動いていた。そんな中、新庄はメジャーにも興味を持っているというウワサがあり、獲得したいという気持ちはいっそう強くなった。
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■GM補佐を甲子園に
新庄を初めて見たのは1990年、彼のプロ1年目だった。場所はダイエー(現ソフトバンク)の二軍本拠地の雁の巣球場。当時、ダイエーの通訳をしていたわたしは阪神の背番号63のプレーに目を奪われた。高卒ながら打球の飛距離はケタ違い、遊撃手としての肩の強さも申し分なかった。彼の運動能力の高さが脳裏に焼き付いて離れなかった。
それから10年後、2000年のシーズン中にメッツのオマー・ミナヤGM補佐が来日した。メジャー移籍のウワサがあったイチローの視察が主な目的だった。メッツのスカウトに転身していたわたしは彼をアテンドし、甲子園球場にも連れて行った。新庄はその試合で3三振したものの、ミナヤGM補佐は運動能力の高い選手ということを認めた。
迎えた日米野球。全日本打線の中でメジャー投手陣に対してだれよりもタイミングが合い、だれよりも強くバットを振っていたのは巨人の松井秀喜でも広島の金本知憲でもなく新庄だった。
新庄を獲得したい気持ちはいよいよ膨らんだとはいえ、本人にメジャー志向があることが大前提だ。そこで11月12日の最終戦の前、旧知の間柄だったロッテの黒木知宏に探りを入れてもらうと同時に、わたしの連絡先の入ったメッツの名刺を渡してもらった。新庄の連絡先が知りたかったからだ。黒木はその日の先発投手だったにもかかわらず、新庄がメジャーに強い興味を持っていること、そして連絡先を聞き出してくれた。
保証額は7000万円あまり
日米野球終了後、新庄に電話すると、強いメジャー志向を持っていることが確認できた。ならばぜひ、正式なオファーをしたい。わたしはすぐにミナヤGM補佐に連絡して新庄の意思を伝えたうえで、獲得のための条件提示をしてほしいと頼み込んだ。
上層部は通算打率が2割4分台だった点を危惧して渋っていたので、どんな条件でも構わないから、どうかわたしの顔を潰さないでほしいと強く訴えた。
出てきた条件は、3年契約ながら、球団が20万ドルを払っていつでも解雇できる内容だった。契約金30万ドル、1年目の年俸はメジャー最低保証の20万ドル。この時点では出来高払いすらなかった。新庄が保証されている金額は、わずか7000万円あまりだ。
「これだけ?」
わたしは思わずミナヤGM補佐に食ってかかったが、「ジミー(大慈彌氏)の顔を潰さないためのオファーだ。どんな条件でも構わないと言ったろ?」と取り付く島もない。
阪神が引き留めに用意した条件は5年12億円といわれる。新庄に提示するのが恥ずかしくなるような金額ではあった。
初めて新庄と会ったのは六本木の地下にあるイタリアンレストラン。彼が指定してきた場所だった。
彼の動向は常にメディアに注目され、特に在阪スポーツ紙には連日、大きく報じられていた。メジャー入りのウワサもあったためか、わたしの自宅にも複数のスポーツ紙の記者が取材に来た。新庄と接触していることが公になれば、それこそ大騒ぎになる。騒ぎが大きくなって新庄のメジャー志向がしぼんでしまうことを何よりも恐れた。メッツサイドで知っているのは当時のスティーブ・フィリップスGMとミナヤGM補佐だけ。事は極秘裏に進め、六本木のレストランでの待ち合わせはまさに密会だった。わたしは周囲にそれらしい人物がいないのを確認してから階段を下りた。
■メジャーでプレーしたい
彼の選択基準がカネではないことは電話でのやりとりから、うすうす感じていた。
本当はメジャーでプレーしたい。自分の力をワンランク上のステージで試してみたい。だが、それまでメジャーで成功した日本人野手はひとりもいない。力を試そうにも、スタートラインに立てなければかなわない。自分はメジャーでレギュラー、あるいはそれに近いポジションを取れるのか。その点が引っ掛かっているのかもしれないと思ったわたしは、レストランにある資料を持参した。 =つづく
▽大慈彌功(おおじみ・いさお) 1956年、大分県出身。76年ドラフト外の捕手として太平洋クラブ(のちのクラウンライター、西武)に入団。引退後、渡英。ダイエー(現ソフトバンク)、ロッテで通訳を務めたのち、97年からメジャーのスカウトに。メッツ、ドジャース、アストロズ、フィリーズで環太平洋担当部長を歴任。