わずか4年で姿を消した「野球くじ」の歴史…八百長の危険性がどうしてもネックに
終戦の日本は復員兵の生き方が大きな問題だった。プロ野球界も同じで、復員選手の意思を尊重し、復帰希望者は速やかに選手登録をした。兵役に就いたときに所属していたチームがなくなっていた選手には新興球団に入れるよう便宜を図った。
それと並行して行われたのが「戦地からの引揚者援護資金」を調達するために発売した“野球くじ”だった。戦後2年目の1946(昭和21)年のことで、日本勧業銀行(みずほ銀行の前身)が扱った。名称は「甲種特別宝くじ」。
1枚10円で1等は1000円。最初は6月29日、後楽園球場で売られた。その後「新野球くじ」と名称を変え、西宮球場でも発売された。
くじの内容は、対象となる試合の両軍合計得点の下1ケタの数字と勝利チームを当てるというものだった。
例えば、A軍が4-3でB軍に勝ったとする。その場合、勝利はA軍、スコアの総計は7だから、「A7」が当たりとなる。また、B軍が8-5でA軍を下せば、得点総計13の下1ケタの数字が3となるため、「B3」が当せんとなる。分かりやすい仕組みだった。当せん者には総売り上げの50%を分配したそうである。