「マル」平川克美氏
「マル」平川克美氏
主人公は、1950年の東京の場末に生まれた少年・通称マル。小さな工場を営む父やそこで働く工員たちに囲まれて彼が過ごした60年代の描写から、物語は始まる。
「僕は長年ビジネス畑にいて、評論やエッセーを書いてきましたが、それだけでは表現しきれないものがありました。自分と同年代の連中が、どんなふうに生きて今に至ったか。それを描くことは結局昭和という時代を描くことになるのですが、この昭和は、映画『三丁目の夕日』とは全く異なる場末の昭和です」
工場が立ち並ぶ地域一帯、地方から出てきた工員たちが住み込みで働き、近所には放たれたままの野良犬が自由にうろつく。工場では指を切断するのも日常茶飯事で、指を落として支払われた保険金で会社が一息つくことを父親は笑い話にする。息子は食卓にむらがるハエの死骸を集めて、マッチ箱につめて町内会に持っていく。飴玉と交換してくれたからだ。著者いわく昭和は「死が飴玉と交換される時代」だったのだ。
「戦争で日本はボロボロになり、何もなくなったところから出発して、ジャパン・アズ・ナンバーワンまで駆け上った。戦後の日本というのは、貧しいながらに明るくて、明日を信じていた。誰もが同じように貧しい『協和的な貧しさ』だったからこそ、貧乏が苦ではなかった。その中に今の時代にはない喜怒哀楽があり、野生がありました」
登場人物こそフィクションだが、本書はそんな時代を生き抜いた著者の人生を色濃く反映させた自叙伝的小説といえる。ビジネスマンとしての自分を確立させた70年代から還暦を迎え親の介護に追われた2010年代、自身と同世代の老いに直面する20年代へと一気に展開する。
それぞれの時代に人生の折々に出会った文学の断片が差し込まれる。文学に傾倒しつつも、理工学部に進学し、経営者となり文学は趣味だと言い聞かせた過去がちらつく中、すっかり高齢になった旧友や憧れの女性との再会というクライマックスへとなだれ込む。
「僕らは社畜と呼ばれた世代で、僕自身もビジネスマンとしてあやうく成功しかけたけど、それは本意じゃなかった。自分の中にあったのは結局『文学』だった。今の時代、自分の生き死にを小説に重ね合わせて読む人はあまりいないでしょう? けれど僕は文学を信じている。腹が減ってたまらないときにむさぼり食う白飯みたいに、知的なものに対する強い欲求があって文学に出会うべくして出会ってしまった。だからこそ小説を書いたのかもしれないけれど」
引用される言葉の中で、印象的なのが堀川正美の詩「新鮮で苦しみおおい日々」の中の「時の締め切りまぎわでさえ自分にであえるのはしあわせなやつだ」という一節だ。人生後半戦に入った人なら、思わずドキリとするのではないか。
「昭和といえば見下げられ、年寄りは早く死んだ方がいいなんていうやつもいるけれど、大くくりにするやつのことなど信じるなと僕は言いたい。自分の人生は失敗だったのでは……なんて、実はみんなそう思っている。文学は敗者の物です。僕は敗者の味方ですよ」
(集英社インターナショナル2200円)
▽平川克美(ひらかわ・かつみ) 1950年、東京・蒲田生まれ。早稲田大学理工学部卒業後、翻訳会社などの設立にかかわった後、2014年「隣町珈琲」をオープン。「小商いのすすめ」「移行期的混乱」「共有地をつくる」「ひとが詩人になるとき」など著書多数。