“正しい食生活”に従わない主婦は更生施設送り
“健康のために野菜や食物繊維をたっぷりと取ろう”。現代の日本でも耳にする、とりわけ珍しくもない食のスローガンだが、時代が変われば、これが独裁者による思想教育にもなる。藤原辰史著「ナチスのキッチン」(共和国 2700円+税)では、人間の営みの中でももっとも基本となる食を利用し、ナチスが社会統制を果たした歴史をひもといている。
「毎日の食事に細心の注意を払え」。ヒトラー政権下のドイツ国民は、この意識を徹底的に叩き込まれていた。自分や家族の健康のためではない。“体は国家と総統のもの”であったためだ。当時、ドイツの14~18歳の青少年が加入していたナチ党の組織であるヒトラー・ユーゲントの手引書には、「正しい食生活が健康な国民と兵士をつくる」という露骨な表現もある。そして、「肉を食べ過ぎるな」「食物繊維豊富な全粒粉のパンを選べ」など、正しい食生活が“強要”されていた。
このような食の公共化にあたり、プロパガンダの主要ターゲットとされたのが、台所を預かる主婦だ。当時のドイツは農業政策の失敗による慢性的な食糧不足に見舞われ、消費統制が強化されていた。そして、食糧政策の末端である主婦層に不満が蓄積されていた。しかしナチスは、食によって強い兵士を育成するという“尊い役割”を主婦たちに与えることで、彼女たちを疑似総力戦体制のシステムに組み込み、不満をかわしていった。
非社会的な主婦、つまりナチスの思想に従わない主婦は、更生施設に収容された。そこでは、家族とコンタクトを取ることが禁じられ、容赦なく生活の基本を叩き込まれ、規則を破った者は地下牢に監禁されるという厳しさだったという。
本書では、ナチス政権下における料理本なども紹介しているが、思想教育がふんだんに盛り込まれ、うすら寒いものを感じさせる。今、日本の食卓は幸せのために存在しているか、もう一度振り返りたくなる。