恋人たちの証言を重ねて描く世界的人気作家の素顔
「パトリシア・ハイスミスに恋して」
「今度の本を書くのは楽しい」とその作家は秘密の日記に書いたという。「文章の一つ一つが、まるでクギをトントン打ち込むように紙に刻まれていく。爽快な気分だ」
今週末封切りのドキュメンタリー映画「パトリシア・ハイスミスに恋して」。
題名を見て「おっ」と思った人は、主要作のほぼ全部が映画化された人気ミステリー作家の話を期待してだろうか。それとも映画「キャロル」の原作を書いた20世紀最高のレズビアン作家の話と思ってだろうか。それとも両方?
ハイスミスはデビュー作「見知らぬ乗客」がヒチコックに映画化されて以来、「太陽がいっぱい」「アメリカの友人」「ギリシャに消えた嘘」等々で世界的な人気を誇った作家。しかしその私生活は生前固く秘匿されていた。彼女は10代のころから同性愛を自覚していたが、時代はまだ戦前。30歳を目前に人気作家となって自由を満喫したものの、故国での人目から隠れるように欧州に移住、最後まで帰ることはなかった。
映画はそんなレズビアンとしての葛藤を、母親との関係や友人愛人恋人らの証言を重ねて描いており、多くの観客の興味もそこにあるだろう。しかし筆者にはむしろ、ひとりの作家の創造の源泉、工房の秘密が強く印象に残った。
彼女は「人生のあらゆる苦難を書くことでしのいでみせる」と豪語する一方、満ち足りた静かな田舎の家で、朝からオレンジジュースに混ぜた大量のジンを呷って、書くことへと自分を駆り立てる刻苦と克己の物書きだったのだ。
彼女と同様、アメリカには故国を去って戻らなかった作家の系譜がある。フランスに育ってカトリックに改宗したジュリアン・グリーンもそのひとり。代表作「モイラ」(岩波書店 1276円)に見られる強い性的禁忌に、ハイスミスに一脈通じる何かを感じるのは深読みだろうか。 <生井英考>