美術館からサックラー展示室を排除する戦術は…
てっきりアーティストの仕事や人間を描く芸術ドキュメンタリーだと思っていたら全然違った、というのが今回の映画。今週末封切りの「美と殺戮のすべて」である。
取材対象はアメリカの写真家ナン・ゴールディン。1980年代に写真集「性的依存のバラード」(未訳)でデビュー。同棲する男に殴られて青タンのできた自写像が強烈にパンクな印象だった。
いまでは世界中の美術館に作品が収蔵される巨匠の彼女だが、10年前に交通事故の手術で鎮痛剤を投与され、副作用で猛烈な依存症に陥ったという。それが悪名高いオピオイド系のオキシコンチン。アメリカで同様の経緯から中毒死が相次ぐ薬剤だ。
幸い彼女は回復したが、気になったのが自作を収蔵する世界の美術館。そこには大富豪の一族が多額の寄付をした特別室が名前入りでずらりと並ぶ。特に「サックラー展示室」は欧米の有力美術館にことごとくある。そのサックラー一族が実はオキシコンチンの大量販売でぼろ儲けする製薬会社の創業家なのだ。
ゴールディンはそれが許せず、美術館からサックラー展示室を排除する運動を起こす。といっても下手なやり方では美術館と揉めるのは必定。そこで彼女がとった戦術は……という先は映画館で見てもらおう。なるほどと膝を打つやり方はアーティストの気骨と成熟のたまものだ。
監督はローラ・ポイトラス。E・スノーデンなど権力と闘う人間に迫る社会派だが、折々でゴールディンの来歴に触れ、上手な伝記にまで仕上げている。
ところでオピオイドは日本でもがんの末期治療などで常用されている。D・テイラー著「慢性疼痛とオピオイド依存症の患者マネジメント」(山口重樹監訳 メディカルレビュー社 3300円)はヘロイン服用とオピオイド依存の関係まで目を配った驚きの専門書である。 <生井英考>