香取慎吾に救いの手 公取委注意で分かった萩本欽一の偉大さ
すると、萩本は「年を取ったから『仮装』を誰かにあげたいと思う。俺降ろして、慎吾にしてくれないかって(スタッフに)お願いしたんですよ」と明かした。
その12日後、日本テレビは定例記者会見で香取の続投を発表した。
因果関係は分からないが、事実を記せばこのような経過が存在した。
■“視聴率100%男”欽ちゃんの功績を振り返ると…
テレビ史を振り返ると、萩本の功績は燦然(さんぜん)と輝いている。
1960年代後半、坂上二郎との「コント55号」で舞台上を動き回り、躍動感のあるコントで爆笑の渦を巻き起こした。当時、テレビカメラは固定されたままだったが、飛び回る2人を撮るため、右に左に動くようになったと言われている。
1976年には「欽ちゃんのどこまでやるの!?」(テレビ朝日系)という冠番組を始め、“夜9時台はドラマや音楽番組”というテレビ界の常識を覆し、バラエティーの地位を向上させていった。