「ストレス」嫌いな言葉。使わないようにしている。
「どうすれば脚本家や小説家になれますか?」
作家志望の青年の相談に乗る羽目になったのだが――。
☆ ☆ ☆
今日も青年から恒例のメールが届く。
〈質問① 小説などを書いていてストレスが溜まると思うのですが、おすすめの発散方法があれば教えてください! ※お忙しいと思いますので、質問のお答えは短くて結構です〉
もはや1日1回来る(しかも質問されながら答えは簡潔でいいとなぜか命令される)君のメールがストレスだ、とは大人なので言わない。が、「ストレス」と言われてもわたしにはストレスがない。いや、あるにはあるのだろうが、「ストレス」という言葉は使わないようにしている。嫌いな言葉なのだ。言葉っていうのは恐ろしいもので、使えば使うほど妙な意味を持ち体に侵食してくる。まさにこの青年のように、「発散せねば」と強迫観念のようになる。これが嫌。外道なことをなりわいにしているわたしは、まず仕事があるというのはありがたいわけで、それにプレッシャー=圧がないと何も燃えないタチなので、えたいの知れぬ何かを肩こりと腰痛にのせて、最後、書いている小説に「了」と打ちたいのである。了、と打った瞬間だけが至福であって、もしかしたらそこで発散しているのかもしれないし、逆にそこでしか抜けない。