五木ひろしの光と影<6>野口修は沢村忠と五木ひろし…ジャンル違いのスターを生み出した
数日後、西麻布の平尾の事務所で取材をすることになった。開口一番「野口さん、元気にしてるの?」と聞いてきた。
「ああいう人はもう二度と出ないね。沢村(忠)君と五木(ひろし)君というジャンル違いのスターを生み出すなんて、あの人くらいでしょう。最近は音沙汰ないんだけど……。まあ、洋子ちゃん(山口洋子)に人生を捧げたんだろうねえ」
平尾昌晃は1937年、東京・新宿に生まれた。戦前に化粧品販売で財を成した平尾聚泉は祖父、クラシックの作曲家で国立音大教授の平尾貴四男は伯父である。大学時代にジャズ喫茶で歌っていたところ、渡辺美佐(現・渡辺プロダクション名誉会長)にスカウトされデビュー。「日劇ウエスタンカーニバル」に出演すると人気が爆発し、ミッキー・カーチス、山下敬二郎らと「ロカビリー三人男」と呼ばれた。しかし、人気はそう長く続かず、65年には拳銃不法所持で逮捕されてもいる。その前後より作曲家に転身すると非凡な才能を開花。「霧の摩周湖」(布施明)、「渚のセニョリーナ」(梓みちよ)と次々とヒット曲を連発し、ロカビリー時代のイメージを払拭したばかりか、中堅作曲家のひとりに数えられるようになっていた。生前の平尾はこの時代のことを次のように振り返る。