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北島純映画評論家

映画評論家。社会構想大学院大学教授。東京大学法学部卒業、九州大学大学院法務学府修了。駐日デンマーク大使館上席戦略担当官を経て、経済社会システム総合研究所(IESS)客員研究主幹を兼務。政治映画、北欧映画に詳しい。

ウクライナ軍事侵攻下で行われた第94回アカデミー賞を総括する

公開日: 更新日:

【特別寄稿】北島純(社会構想大学院大学教授)

 3月27日(日本時間28日)にロスアンゼルス・ドルビーシアターで挙行された第94回アカデミー賞で、濱口竜介監督(43)の「ドライブ・マイ・カー」が国際長編映画賞を受賞した。日本映画としては2008年の「おくりびと」(滝田洋二郎監督)以来の快挙。同作品は他にも作品賞、監督賞、脚色賞にノミネートされ、史上最も高い評価を受けた日本映画になった。

 濱口監督は東大文学部で美学芸術学を専攻し、東京藝大大学院映像研究科在学中に黒沢清監督らの薫陶を受けた俊英。これまでに「PASSION」「ハッピーアワー」「寝ても覚めても」「偶然と想像」等の作品で注目されてきた。今回の「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹氏(73)の短編小説集『女のいない男たち』(文春文庫)を題材に、妻を亡くした舞台演出家の男性(西島秀俊)と、母を失った過去を持つ寡黙な女性運転手(三浦透子)の姿を丁寧に描く。昨年のアカデミー賞を席巻した「ノマドランド」(クロエ・ジャオ監督)と同じく、何かを失った人の抱える喪失感を描く系統の作品だが、濱口映画の真骨頂はそれに留まらない。

快挙「ドライブ・マイ・カー」は劇中劇で見せる西島秀俊の演技が超絶

 主人公の演出家はチェーホフの芝居「ワーニャ伯父さん」(劇中劇)を手掛けるが、その稽古は独特で、日台韓からなる多様な役者はあえて感情を乗せないでセリフ(多言語)を棒読みにする稽古を重ねる。そうすることによって舞台本番で感情が自ずと発露される効果を期す演出法だ。広島にある稽古場と呉の宿を日々往復する赤いサーブ900の車内ではテープに録音していた亡き妻がセリフ合わせを行う「声」が再生されるが、それも棒読み。運転手との会話も抑制の効いた静かなものだ。そうした極度に「平坦化」された現在の風景と、過去における「秘密」の再生、そして来たるべきチェーホフの芝居本番という三重構造が折り重なり合う中で、大切な人を失った自責の念を、他者の現実をありのままに受容することによって克服する過程と、遺された者が生き続けることの意味が描かれる。

 チェーホフの劇中劇で見せる西島秀俊の演技は超絶だ。北海道の雪山における主人公の慟哭は深く心に響き、女性運転手が自らの人生を前に進めるラストシーンは爽快。脇を固める岡田将生霧島れいか、手話を使うパク・ユリムらの演技も素晴らしい。フェイクが横行する現代にあって、何が本当なのかを決めつけることなく現実と真摯に向き合い、虚実を相対化するという「克己の道程」が、かつてないほどに美しくかつロジカルなカメラワークを駆使して物語られる。3時間近い大作だが、現在の日本映画界が誇るべき傑作であることは疑いようがなく、必見だ。

 コロナ禍で映画館興業が苦戦を強いられる中で台頭したのがネット配信映画だが、今年の作品賞は遂にApple配信映画が獲得した。シアン・ヘダー監督(44)の「コーダ あいのうた」で、仏映画のリメイク版。聴覚障害を持つ家族が漁業を営む中、歌手を志すも反対される高校生の娘を主人公に、家族愛を謳い上げて多くの人の共感を得た。助演男優賞に輝いた父親役トロイ・コッツァーが受賞スピーチを手話で行った際、会場の参加者は掌をひらひらさせる手話式「拍手」を贈った。今回のアカデミー賞の象徴的光景だ。

「人間存在への愛」「多様性に対する繊細な感覚」重視は原点回帰

 ノミネート段階で本命視する声もあったNetflix配信映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は、ジェーン・カンピオン(67)が監督賞を受賞(昨年のクロエ・ジャオに続き女性監督の受賞は2年連続)したものの、作品賞は逃した。粗野で威圧的な兄と繊細な弟をはじめとする家族の対立と葛藤を1920年代のモンタナを舞台にして骨太に描いた作品だが、コロナの惨禍、経済格差による社会の分断、ウクライナ危機という余りにも冷徹な現実の只中にある今年のアカデミー賞では、広く支持を集めるに至らずに忌避された感がある。アカデミー賞審査員による最終投票は3月17日から22日まで実施されたが、2月24日に始まったウクライナ侵攻の影響は否定できないだろう。「人間存在への愛」と「多様性に対する繊細な感覚」を重視した今年のアカデミー賞は、危機の時代にあっての原点回帰を志向したものだと言える。

 受賞式典では、ウクライナのゼレンスキー大統領の中継参加も検討されたが実現せず、代わりにウクライナ支援を呼びかける黙祷メッセージが掲示された。他方で、プレゼンターのクリス・ロックに妻ジェイダ・ピンケット・スミスの頭髪を揶揄されたウィル・スミスが激昂し壇上で平手打ちする後味の悪い場面も。2016年にアカデミー賞の白人偏重批判の口火を切ったウィル・スミスは今回、遂に念願の主演男優賞を獲得した。しかし受賞スピーチでは、アカデミー関係者に謝罪し「家族を守る」大切さを強調したものの、クリス・ロックへの暴力自体を反省する姿勢は見せなかった(その後SNSで謝罪)。図らずも「家族を守る大義」、「行き過ぎた表現の自由の限界」と「暴力行使の是非」について見る者に考えさせる一幕になった。

 他にも、撮影賞・美術賞など最多6冠に輝いたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「DUNE/デューン 砂の惑星」はフランク・ハーバートによる傑作古典小説の映画化作品で、一部でカルト的人気を誇るデイヴィッド・リンチ監督作品(1984)を過去のものにする「完成度の高さ」を誇る新生SF大作(全2部作予定の第一弾)。専制政治に虐げられる「砂の惑星」の民が待望する救世主を描いた壮大な叙述詩で、「風の谷のナウシカ」ファンならずとも必見だ。

「ドライブ・マイ・カー」の原作で改めて注目される村上春樹氏は、2009年にイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を贈られた際の受賞スピーチで、人間を「冷たい壁を前にした卵」に例え、人間の魂の尊厳、かけがえのなさを訴えた。「爆撃機や戦車やロケット、白リン弾」が「高くて硬い壁」で、「それらに蹂躙され、焼かれ、撃たれる非武装の市民」が「卵」であるとする村上春樹氏の警鐘はまさに現在のウクライナ侵攻を言い当てている。

 今回のアカデミー賞はウクライナ危機という、プーチンが仕掛けた非人道的な侵略戦争の真只中で挙行されたからこそ、そうした人間存在のかけがえのなさを讃える結果になったと言えるだろう。

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