【追悼】KANさん「愛は勝つ」ヒットの必然 最期まで“ポップミュージック”を追究し続けた生涯
■音楽ギャグエンターテインメントショー
サービス精神にあふれ、ライブではダンス、寸劇、コントなどのパフォーマンスを盛り込んだ。KANさんはこれらを「音楽ギャグエンターテインメントショー」と呼び、吉川晃司のモノマネで観客を笑わせることも。
「アイドル集団のハロー!プロジェクトと同じ事務所(アップフロント)にいて、曲の提供もしていましたが、どれもがとても50代のときに書いたとは思えない……。年下のアイドルとも友達感覚で接し、分け隔てなく付き合うおおらかさ、飾らない人柄から、たくさんの人に親しまれた。だからこそ、みんなに響く曲をつくれたのではないでしょうか。日本のポップミュージック界において、得がたい才人でした」(加藤氏)
作曲のみならず、編曲にもこだわり、レコーディングの際、演奏者に渡すスコア(パートをまとめた楽譜)も自分で書いたりしていたそうだ。
「クラシックの素養があったからできたことです。根っから音楽が好きだったんですね。40代になってからピアノを学び直そうとフランスに留学したのもそうですし、亡くなる直前にも渡仏しているんです。まだまだやりたいことがいっぱいあったのでしょう」(加藤氏)
KANさんは今年3月にメッケル憩室がんであることを公表、入退院を繰り返した。早すぎる訃報を受け、老若男女、音楽関係者を中心に芸能界からの追悼が相次いでいるのは、それなりの理由があってのものなのだろう。