第1話 じゃりン子チエは神 <6>
世の中の動きを左右する団塊世代
三男が昭和40年生まれであることを最初に意識したのは、中学1年生の4月だった。
佐久新学院という、栃木県内はもとより、全国的にも有名な私立学校の中等部に特待生として入学したのだが、所属する体操部の顧問から何年生まれなのかと聞かれたのである。
「昭和40年生まれです」
「東京オリンピックの後に生まれたヤツが、もう中学生になるのか」
顧問の成田先生は昭和20年生まれで、三男たちとは丁度20歳違うという。
「おまえらには、東海道新幹線や東名高速道路がない世界なんて想像できないだろう。もちろん、おれも、戦争中の人たちがどんな気持ちで暮らしていたのかは分からないわけだけどな」
日体大の体操部で監物永三や塚原光男の先輩だったという成田先生の言葉は、三男の耳に残った。兄たちから、「三男坊はノンキでいいな」とバカにされることはあっても、誕生した年で考え方が左右されると思ったことはなかったからだ。
そう思って気にしていると「焼け跡世代」や「団塊の世代」といった言葉が、雑誌や新聞にちょくちょく載っていた。「焼け跡世代」は1935年から46年の、大東亜戦争中とその直後に生まれた人たちを指す。政治に関心が強く、何事にも懐疑的だが、モラルが高いとされていて、成田先生や三男の両親はこの世代だった。
「団塊の世代」は1947年から49年の第1次ベビーブームで生まれた人たちを指す。人数が多く、この世代の人々の志向や動向が世の中の動きを左右すると言われている。年功序列を重んじ、安定志向が強い。
1950年代と、60年代の前半に生まれた人たちは「しらけ世代」と呼ばれていた。全学連、全共闘と続いた反乱の季節の反動で、政治に無関心なだけでなく、何事にも情熱を注がない。兄たちの姿を思い浮かべて、三男は大いに納得するところがあった。
問題は、自分たちが何と呼ばれるかだが、成人してもいない少年たちにこれといった特徴があるはずもなかった。
三男は自分の性質を顧みて、世代的な特徴よりも、三男坊であることの方が大きい気がした。兄たちは、会計士である父から勉強しろと口酸っぱく言われたそうだが、三男は一度もそんな注意をされたことがなかったので、日が暮れるまで外で遊び、テレビもたっぷり見た。漫画も山ほど読んだ。
ただし、成績はそれほど悪くなかった。門前の小僧習わぬ経を読むで、掛け算の九九は小学校に入る前から全部の段を言えたし、平仮名はもちろん、漢字もたくさん書けた。テスト問題の傾向も分かっていたので、要領よく点数を稼ぐことができたからだ。
なにより、もしも自分が長男や次男だったら、いくら運動神経が良くても、父に反対されて体操の道に進ませてもらえなかっただろう。
ほとんどその意味だけで、三男は兄たちがいてくれてよかったと思っていた。
(つづく)