小峰ひずみ氏(批評家)
4月×日 家族で遠戚との食事に呼ばれる。父母が世話になった人たちだが、私や妹も親しい。宴会で結婚の話になる。結婚式の動画をYouTubeでみなが観る。新婦が父から新郎に「渡される」クライマックス。
帰り道で東浩紀著「訂正する力」(朝日新聞出版 935円)を読む。面白い。しかし、政治を論じる段はごまかしばかり。リベラル派の主張を矮小化した上で「訂正」しているのだ。特に安全保障について論じた箇所。「保守とリベラルの対立を超え」る哲学をつくると豪語する(「訂正可能性の哲学」)東によれば、日本は従来の平和主義を、軍備増強しつつ観光などの文化力で侵略を招く確率を下げる施策へと「訂正」すべき、らしい。
ここで東は平和主義が政治的立場であることを忘れている。そもそも軍拡は恥ずべきことだ。恐怖を煽って軍拡を進める恥知らずはどの国にもいるが、逆に希望を捨てずに平和主義を守り抜こうとする人々もいる。国外の平和主義者と連帯して軍縮を目指すこと。それが戦後左派の社会運動が草の根で広げた政治的立場だ。しかし、東はこれを非政治的立場へと「訂正」しようとする。東はなんとか対立を避けようとする。「平和とは政治の欠如である」が彼の主張だからだ。音楽やスポーツといった非政治的な話題をめぐる対話に、彼はリベラルと保守の対立を超えた「平和」を見出す。
実際はどうか。先の宴席ではみな「結婚式は素晴らしい」と騒いだ。たわいない会話だ。しかし、私は居心地が悪かった。「男2人が女をモノとして交換している」と私が言うと、「ややこしいこと言うな」と諭された。しかし「うちもそう思う」と横で声がした。妹だ。宴席の雰囲気は変わった。私は彼女と国政の話などしたこともない。しかし、ここぞで連帯してくれた。嬉しかった。たしかに政治は対立を生むが、非政治的な物事を「政治」にしなければならないときもある。言うべきことは言うべきだ。
私にとって、平和とは政治への寛容である。平和な宴席でメシはとてもうまかった。