小林信也(作家、スポーツライター)
3月X日 夜、原稿を書いていると、「じいじわねたかなあ」とLINEが入った。送り主は5歳の孫娘。少し前にスタンプのやりとりを始めたときは意味不明の平仮名やアルファベットの羅列だったが、突然、読み取れる文字に変わった。子どもの成長の早さに仰天する。少し漢字も混じるようになった。携帯電話の変換機能のおかげだろうか。
3月X日 Xジャパンの共同プロデューサーだった友人の津田直士さんが、「小学校の音楽の成績はずっと1でした。学校の音楽の授業は音楽じゃなかったんですよ」と言って笑った。同じことを僕も感じる。作文の授業で評価された記憶はない。学校で求められる作文は堅苦しくて、文章を書く楽しさを感じなかった。
3月X日 知人が講談社現代新書《ソシュールと言語学》の抜粋を送ってくれた。拾い読みすると、「コトバの本質は意味を伝達することにあります」とある。これがまさに言葉をめぐる誤解の象徴だと思う。大学時代から雑誌で原稿を書き始めて数年後、文春の名物編集者に原稿を出すたびダメ出しされた。学んだのは、僕の文章はきちんと意味は通るけれど魅力がない。人の心を揺さぶる文章に意味なんて必要ない、極論するとそうなのだ。
文章のデータ量は極端に少ない。だが、読んだ人の身体の中で起こる波や変化は膨大だ。映像が浮かび、感情が沸き立ち、時空を超えて旅ができる。そういう魅力に触発されて文章を学ぶ日本人はどれほどいるだろう。
3月X日 藤森裕治著「これからの国語科教育はどうあるべきか」(東洋館出版社 2090円)という新刊情報が目に入った。本を開くと最初の扉に、《新時代の国語科を見つめる56の提言》とある。幼稚園から小中高、大学まで主に国語教育に携わる専門家たちが4頁ずつつづるエッセー集。SNSの普及など言葉の環境が大きく変わる時代の中で苦悶し工夫し、新たな発想で国語教育を構築し直そうとする姿勢を知って心強く思ったし、新たな示唆も与えられた。
3月X日 「カラオケいこう」とLINEが来た。5歳の孫は、僕らが早口すぎて歌えないADOやYOASOBIを軽快に歌う。こういう言語感覚を持ついまの子に旧態依然の国語授業は退屈だろうなあ。