久保田早紀“引退”の契機 久米小百合さんが聖書を開いた訳
■「人生のナビゲーターです」
女の子ならピアノをと決めていた両親にアップライトのピアノを買ってもらい、4歳から鍵盤を叩いていた私は、ブルグミュラーの練習曲などの旋律の向こうに、時折エキゾチックな風景が広がっていくような気分がして好きでした。「アヴェ・マリア」や賛美歌に引かれていた。友達に誘われて教会の日曜学校に通っていたんです。そこでプレゼントしてもらった聖書から、その当時の憧れを思い出し、少女の頃に夢見た風景が広がっているのを感じたのです。そして改めて教会に通うようになり、ギリシャなどイエスゆかりの地に行って、その土地のにおいや言葉、喧騒に入ることによって、身をもってその世界を感じられるようになりました。私にとって聖書は人生の最大のよりどころ。ドーンとぶつかっていっても、倒れない柱であり、イエスからのラブレター、人生のナビゲーターなのです。
同じ一日がないように、聖書を開くたびに新鮮な気づきがあります。たとえば新約の「ガラテヤ人への手紙」第5章に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書かれているところがあって、この自制がよく分からないでいました。「節制」との訳もあるのですけど、どちらにしても、聖霊によってもたらされる御霊の実にどうしてそれが入るのか。自制も節制も自分で意識して自分を律するものなのではないかと思ったのです。でも、最近これを英語にするとセルフコントロールと聞いて、膝を打ちました。いつも誘惑に負けないでいられればそれに越したことはありませんけど、現実にはそうはできませんよね。運命と同様、セルフコントロールすら、本当に思うに任せないもの。自分で自分をコントロールできる、しているつもりでいること自体が思い上がりであることを知ったのです。