1979年に渡辺プロを独立 森進一が受けた“森潰し”の圧力
ところが、独立した森は、レコードを出せなくなり、テレビ出演も激減した。その理由は、渡辺プロ以外の芸能事務所も協調して“森潰し”に加わったためとされる。森の独立をあっさり認めると、雪崩現象が起きかねず、業界にとって死活問題となる。そこで音事協が業界の意思を体現して、テレビ局などに圧力を加えていたといわれている。
森は、独立から半年後、ようやく独立後1作目のシングルをリリースでき、それなりにヒットした。
だが、ここで新たな問題が発生した。森が他の歌手やタレントに対し、自分のように独立するよう、“そそのかした”といわれたのだ。当時、名前が取り沙汰されたのは、サンミュージック所属の都はるみや、芸映プロ所属の西城秀樹ら。音事協の総会では「あんな男はこの世界にいてもらいたくない」という声も上がった。
この影響で、80年6月ごろより、芸能界に森との共演拒否の動きが広がり、森は再び窮地に立った。その直後、森と女優の大原麗子の結婚披露宴が開かれたが、騒動の余波で欠席者が相次ぎ、森のメンツは丸潰れとなった。
仲人の自民党代議士、山中貞則は「私は独禁法の権威でありますが、仮に事業者団体が特定の者を排除しますと、独禁法が発動されることになる」と披露宴の席で挨拶したが、この時、結局、公取委は動かず、森は苦杯をなめたのだった。=つづく