「夜空」でレコ大受賞の五木ひろしは野口プロ所属の第1号
この時期、五木ひろしは、沢村忠と同じく野口修を社長とする野口プロモーションに所属していたのだ。キックボクシングで大成功を収めた野口修は、余勢を駆って事務所内に芸能部を立ち上げた。その所属タレント第1号が歌手の三谷謙こと、現在の五木ひろしだったのである。畑違いのジャンルへの進出に、反対意見も揶揄する声もあったが、野口修は聞く耳を持たなかった。強気の性格もあるが、まったくの門外漢というわけでもなかったからだ。野口修の実家である野口家にとって芸能は家業でもあったのだ。
■児玉誉士夫の要請で、家族で上海に移住
話は戦前に遡る。野口修が誕生した1934年1月当時、父の野口進は、甲子園球場や旧国技館に1万人以上の大観衆を集める人気ボクサーの立場を捨て、元首相の若槻礼次郎を襲撃した罪で獄中にあった。父は頭山満の流れをくむ右翼団体「愛国社」の壮士でもあったのである。懲役7年が言い渡された父だが、減刑され1938年に府中刑務所を出所すると、妻の里野と長男の修を連れて、東京を離れ上海に移住した。獄中で交誼を結んだ児玉誉士夫の要請によるものだった。