沢口靖子主演「科捜研の女」は東映のもとで映画化されたことに意義がある
沢口靖子主演の「科捜研の女 -劇場版-」が公開中だ。面白い。コロナ禍の中、ダイレクトな問題提起を作品の中心点に持ってきた劇構造に見応えがあった。
健康に好影響を及ぼす、ある細菌使用をきっかけに自殺とも殺人とも判別の難しい大学の細菌研究者の転落死が続く。ここに人類のために進化する目的があるとともに、見落としてはならない落とし穴もある科学の本質がかかわってくる。京都府警・科学捜査研究所の面々が、その科学の中枢部に立ち向かう。
テレビドラマとどこが違うのかという指摘や疑問も分からないわけではない。映画ならではのスペクタクルや派手なアクションシーンがあるわけではない。ただ、いままさに現実に起こっているワクチン接種をめぐる副作用の問題などもテーマに重なってくるとなればどうだろうか。本作は科学の重要性を訴えている反面、エビデンスの立証の難しさなどにも果敢に突っ込んでいく。科学の両面性だ。そのセンシティブで先鋭的な内容は、映画だからこそ描くことができたともいえる。
■刑事映画=ドラマの歴史
いまを写す作風が大きな魅力ながら、科学そのものを視野に入れると興味深いことも見えてきた。本作が、伝統的な刑事映画=ドラマの歴史をしっかりと受け継いでいることだ。刑事映画=ドラマの原点として知られる「警視庁物語」(東映、1956年~1964年)シリーズがある。多くの作品の冒頭で刑事らに交じって事件現場に姿を見せる白衣の男性は、警視庁に属すると見られる法医技師(作品によって銃器技師の場合もある)で被害者の鑑定にあたる。映画版「科捜研の女」は、「警視庁物語」では全くの脇の存在であった法医技師を、科捜研という組織のもとで主演に据えたと見ることができる。つまり、最近でいうところのちょっとしたスピンオフ的な作品になっているのである。
もちろん「科捜研の女」は20年以上前にテレビドラマで始まっている。だからその時点でスピンオフであったともいえるのだが、20年以上の歳月を経て、東映マークのもと新たに映画として製作、公開されたことが重要だと考える。「警視庁物語」は、戦後進んだ科学的な捜査の導入がシリーズの見せ場のひとつになっていた。今回「科捜研の女」の映画化によって、科学という刑事映画=ドラマを貫く伝統的な一本の線がしっかりと引かれた。それが時を越えて一段と鮮明になったのである。
「警視庁物語」との共通点
両者に他の共通点もある。「警視庁物語」は一人の“ヒーロー刑事”が活躍する捜査ものではない。警視庁捜査一課の主任を中心に、何人もの刑事たちが汗水たらして捜査に邁進する。テレビドラマの「科捜研の女」と同じく、映画版の「科捜研の女」もまた、チームの総合力が捜査を一歩一歩進め、犯人逮捕に至る。
今回、沢口靖子扮するマリコの突進力が凄まじい。ほとんど無表情を崩さないマリコの迫力の前に、周りの者がほぼ何も言えない状態で協力していくのは、彼女を信じているからだ。それを可能しているのがマリコの飛び抜けた正義感、行動力だといっていい。
地位の高さ、ヒーロー的な役割というより、彼女の人間力が周りを引っ張っていき、結果的にチーム力となる。刑事映画=ドラマの系譜は、チーム力を前面に出す作品も数多い。なかでも今回の映画版「科捜研の女」は、その大きな意味が画面全体に行き渡っていたと思う。
「警視庁物語」最終作から57年が経つ。繰り返すが、このとてつもない歳月を積み重ねながら、映画のひとつの伝統が引き継がれていることに素直に感動せざるをえない。ラストの落ちがまたいい。それは「映画の力」を信じる映画スタッフたちの心意気だろう。映画化されてよかった。