追悼・風間ルミさん 純白のウエディングドレス姿で「私、プロレスと結婚します!」と宣言
女子プロレスラーの風間ルミさんが、20日逝去した。享年55。華のあるルックスとグラマラスボディーでグラビアでも活躍した風間さんを知る女子プロ記者・伊藤雅奈子さんが素顔をつづった。
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私は風間ルミさんにエロスを感じていた。右頬の下にできるえくぼ。鼻の上のほくろ。大きな胸。甘い声。エキゾチックな大きな瞳。身長は153センチで小兵。常に人を見上げて話す視線がまた、たまらなく艶っぽかった。
「やだーっ、かなかな。それいつも言ってくれるよねー。うれしいっ」
ルミさんの特徴を挙げて“なりたい顔”であることを告げると、彼女はいつもこう言って大きく笑った。「かなかな」とは、私の愛称。「誰からもそう呼ばれてないなら」という理由で、ルミさんが付けた。こんな些細なことでさえ、他者とかぶることを嫌った。思えば、これが風間ルミの生き方。「道なきところに道をつくる」という固い信念が、こんなところでも顕在していた。
シュートボクシングの世界から女子プロレスに身を投じたのは1986年、新団体「ジャパン女子プロレス」の旗揚げだ。“四天王”の元ビューティ・ペアのジャッキー佐藤(享年41)、ナンシー久美(60)、神取しのぶ(現・忍=56)が持つ男性的な容貌と対照的に、風間だけが長髪でアイドルフェース。
加えて、峰不二子の縮小版というべくグラマラスボディー。男性ファン獲得の特攻隊になるのは火を見るより明らかで、ビジュアル系アイドルレスラーのジャンルを一身に背負わされた。
ソロデビュー曲は秋元康が作詞。業界初のハート型レコードで赤、青、緑の3種類があった。イメージビデオ、彼女をモデルにした漫画連載とコミック、マルベル堂からプロマイドも発売され、グラビア誌「月刊PENTHOUSE」(日本語版)に登場。どれも女子プロ界初で、唯一だった。
「選手が宝。選手が支え」
ジャパン女子解散後の92年に旗揚げしたLLPWでも、アップデートしていった。同団体では初の社長とレスラーを兼任。女性らしい華やかさ、激しいプロレスで掲げたコンセプトは「華激プロレス」。93年に勃発した団体対抗戦では後塵を拝したが、先見の明は誰よりも優れていた。95年には総合格闘技に目をつけ、女子初の金網バーリトゥード大会「L-1」を開催。若手選手をディスコのジュリアナ、暴走族のレディース、宝塚のジェンヌ、ロカビリーのキャロルなどにコスプレさせ、リングを華やかに彩り、新たなファンを獲得した。
2000年には“ミスター女子プロレス”神取と天龍源一郎(71)のシングルマッチを企画。男女を超越した看板選手の一騎打ちは業界初の試みだった。03年の現役引退後はLLPWのアドバイザーとして、04年にマット界初のゲイレスラー・ユニット、韓国人レスラー2人をデビューさせ、LGBTQ、K-POPといったトレンドをいち早く取り入れるなど、高いプロデュース力を発揮した。
06年には、参議院議員・神取忍の公設秘書に。女子プロ団体元社長が国会議員の公設秘書に就任したのも、風間だけが成し得た偉業だ。
食通の一面もあり、東京・神楽坂に「豚菜キッチン 絆」を、その後、四谷でバー「Lumiere(ルミエール)」を経営。店名はフランス語で「光」。02年に出版した写真集と同名だ。
振り返れば、17年間に及ぶ選手生活は、常に「私が」ではなく、「選手が」「団体が」だったように思う。
現に、自分のためだけに時間を割いたのは、「デビューするまでの半年間と、社長業を退いてから引退するまでのおよそ1年間だけだった」と話していた。
「選手が宝。選手が支え。だから、社長でいられた」という気持ちが常にあった。給料袋と共に感謝の思いとアドバイスを毎月、手紙にしたためて選手に渡した。風間の手紙を大切に保管している選手の話を伝えると「えーっ、そんなこと言ってたの? やばいっ、泣きそう」と大きな瞳を手で覆った。
LLPWの旗揚げ戦では「私、プロレスと結婚します!」と宣言して、純白のウエディングドレスに身を包み、引退式でも、見目麗しい白いドレスでリングインした。人生最期に眠ったのは真っ白い棺だった。美しいまま星になったルミさん。
今でも私の“なりたい顔”だ。
(伊藤雅奈子/元「週刊ゴング」記者)