<16>最初はリンゴやミカンを描いていたけど力士を書くようになった
絵を描くようになって銀座で個展をやっていた時のことです。
エステで働いているという30代の女性が2、3人やって来て、「私たちが小学生の頃は絵、図工とか体育、音楽が好きな人のことを『増位山流』と言ってましたよ。『増位山流』という言葉もはやりました。私たち増位山流の年代です」と言われたんです。
算数、国語、理科、社会はダメだけど、図画工作、音楽、体育の3つが得意ということ。そういえば、新聞や雑誌でそんなことを言われて話題になったなと思い出しましたよ。
前も話したように、絵を描くようになったのは先代増位山の親父の影響です。親父は絵を描くのが上手で、力士になる前、大阪・北新地の米屋で丁稚奉公をやっていた頃はアルバイトで映画館の看板なんかを描いていたそうです。それで力士を引退して、相撲協会の仕事も暇になってから絵を描くようになった。
だれか先生に教えてもらった方がいいというので、二科展の中山三郎先生を紹介してもらって、二科の公募展に出品して毎年のように入選していました。
そのうち名古屋で個展をやることになって、花を添えるために僕ら関取衆になんでもいいから描いて出してくれと言われて描いたのが最初です。ここ(ちゃんこ増位山)で親父が描いているのを横で見ながらデッサンして最初は見よう見まね。何が何だかわからないままリンゴとかミカンとか描いていたのかな。
同じ部屋の北の湖さんも一緒に始めて富士山の絵を描いて、後々、個展をやったりしていました。
そんな絵でも面白いもので、後援会の人はひいきの力士の絵だからとそれなりの値段なのに買ってくれる。北の湖さんの最初の絵なんて貴重だからずっと持っているんじゃないかな。
親父から二科に出してみろよと言われ
絵の具は混ぜると色が変わるでしょ。それが面白かった。やっているうちにのめり込みました。親父からは、おまえも二科に出してみろよと言われ、中山先生にも親方が描いているのと同じ絵の具で一緒に描けばいいじゃないかと言われてその気になりました。
最初に描いていたのは花とか景色だけど、そういう題材は専門の絵描きさんにはやっぱりかなわない。親父の最初の入選作は太鼓腹の力士が塩をまいている「清め」という絵でした。なので、僕も相撲を題材にするようになりました。力士は花を描くより、力士、相撲を描く方が意味があるということだと思います。
■感覚的にこの絵はいいと思えればそれでいい
よく、絵を見てわからないと言う人がいます。でも、それはおかしいんじゃないかな。感覚的に、この絵はいいと思えば、それでいいんです。よく、知ったかぶりをする人がいるじゃないですか。ちょっと絵をかじったとか、絵に詳しいとか言って。知識をひけらかし、技巧的なことを言って評価したりする人です。
でも、芸術はそういうものじゃないと思う。要は絵を見て、欲しいな、買いたいなとか、この焼き物はいいなという意欲が湧けばよくて、そう思えるのは立派な作品だということです。講釈を言いたい人は、勝手に言っていればいいんです。芸術はそれくらい自由なものですよ。だいたい買う気がないから、無責任なことを言えるんです。=つづく
(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ)