誰ともしゃべらなかった患者さんを満開の桜の木の下に連れていくと…
あるとき、私はAさんの部屋を訪ねました。髪形が短い角刈りだったAさんは、ベッドのそばの車いすに座っていて、ぎょろりと斜め後ろ向きに私をにらみつけるような感じで振り向きます。そんなAさんを見て、私はふと40年も昔、映画館で見た“やくざ役”の高倉健さんを思い出しました。それからは、Aさんに話しかけても答えはなく、近づいた私を手で払いのけようとされました。そのとき、私は「じゃあ、また来ます」と言って部屋を出ることにしました。
後日、あらためて部屋にうかがったときも、Aさんは車いすに乗って窓の外を眺めているか、ベッドで横になっているかでした。ただ、診察では上腹部に大きな腫瘤を触れたことを覚えています。それでも、Aさんは点滴などの治療は首を横に振って拒否され、日に日に痩せていきました。そして、息子さんもこの状況をしっかり理解されていました。
あるとき看護師さんの前で、私は「介護士や看護師さんは、コーヒーを持っていったり、体をきれいにしたり、やれることはいろいろあるけど、私はAさんに何もしてあげられないな……」とつぶやきました。それを聞いた看護師さんは、ただうなずくだけでした。