ヤンチャくれだった右腕・西山一宇をミーティングで叱責
バルセロナで主将を務めた高見泰範(東芝)や、88年ソウル五輪経験者の西正文(大阪ガス)ら先輩選手からは「監督の秘蔵っ子」と呼ばれていた。周囲が西山を支え、本物の選手にしよう、というムードがあった。
91年8月、社会人野球の北海道大会では最速152キロをマーク。見事に球速5キロアップを実現させてみせた。圧巻だったのは、その直後の五輪出場権をかけたアジア地区予選(中国・北京、天津)だった。
負ければ予選敗退という最終戦の台湾戦、同点の九回1死から登板した西山は、延長十回を3者連続三振に打ち取るなど、打者5人から4三振を奪って無失点。延長十回裏にサヨナラ勝利を収めた。
試合を視察していたライバル国のキューバ、米国の監督が「西山がキーマンになる」とコメントをしている新聞記事も読んだ。ヤンチャくれだった西山は、日本代表に欠かせない選手になった。
五輪では抑えとして終盤を任せる構想を固めた。
しかし五輪を迎えた92年、西山の調子がなかなか上がらない状態が続いた。 =つづく