広島・鈴木誠也 遊撃挑戦の苦悩【合同自主トレ・春キャンプで起きた新人のハプニング】
投手出身の鈴木誠也がショート挑戦の苦悩
プロ野球の新人合同自主トレが真っ盛りだ。右も左も分からないだけに、1年目は何かが起こる。球界OB、関係者が1月の新人合同自主トレ、2月の春季キャンプで起きた「新人選手のハプニング」を明かした。
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2012年のドラフトで広島に2位指名された鈴木誠也は、二松学舎大付時代は投手だったが、球団方針で大型遊撃手として育てることになった。当時二軍監督だった内田順三氏は野村謙二郎監督からも「ショートをやらせてください」と言われたと、こう証言する。
「誠也はまだ線が細かったが、広角に打てる。右打者と左打者の違いはあるが、入団時の前田智徳に近いイメージ。打率を残せるタイプで走攻守の三拍子が揃っていた。それでも、ショートの守備は簡単ではありませんでした」
内田氏が続ける。
「外野手としてなら即戦力に近いと感じましたが、まだ1年目だし、外野への転向はいつでもできる。そう思って挑戦させたものの、ショートはサインプレーなどが多く頭を使う。キャンプではゴロを捕球する際の足の運び方から捕球体勢、送球までゼロからのスタートでした。打撃練習は楽しそうにやるのに、守備練習はつらそうで、誠也にとって1年目の挑戦はハプニングだったかもしれません(笑い)。ただ、最初にショートを守ったことで、内外野の連係など、野球を勉強できたことは後に生きたんじゃないかな」
「悪ガキトリオ」にだまされ宮島コースをロードワーク
1983年のドラフト1位で東芝から広島に入団した川端順氏がこう振り返る。
「入寮日だったか新人合同自主トレ初日だったか、春のキャンプの荷造りのために寮に立ち寄っていた達川光男さんに『おまえが社会人ナンバーワン投手の川端か。どれだけ通用するんかのう』と言われ、正直ひるみました」
目標の選手として「北別府学」とエースの名前を挙げていたドラ1新人に、達川先輩は「おまえが北別府になれるわけないやろ。100年早いわ」とクギを刺した。
当時、新人トレを数日行った後は、若手選手も合流して合同練習が行われていた。ある日、ドラ1の川端氏とドラフト外入団の清川栄治が地元テレビ局のインタビューを受けた。取材が終わり、練習に合流すると、金石昭人、津田恒実、白武佳久の若手の同い年3人組にこう言われたという。
「新人はみんなランニングに出た。早く追った方がいい。トレーニングコーチがおるはずやから」
川端氏が聞いたコースは、寮に隣接するグラウンドを出て小高い山を越え、宮島口駅を周回する5キロほどのルート。しかし、いくら走ってもコーチは見当たらない。ヘトヘトになって帰ってくると、視察に来ていた安仁屋投手コーチに「どこ行ってたんや!」とカミナリを落とされた。
聞けばこの日、新人はロードワークに出ておらず、津田ら若手組もずっと短い2、3キロのコースを走って終了だったという。「後に仲良くなりましたが、あの時は1歳下の“悪ガキトリオ”にまんまとだまされました」と川端氏は苦笑いする。
長嶋監督の指示で斎藤、槙原の球を受けてイップスになったドラ1捕手
巨人に鳴り物入りで入団したあるドラフト1位捕手の話だ。
当時の長嶋茂雄監督は有望株に早く一軍の雰囲気を味わってもらおうと、ドラ1捕手にこう告げたという。
「一軍のブルペンに来て球を受けてみなさい」
相手に指名されたのは斎藤雅樹と槙原寛己のエース2人だった。当時のチーム関係者がこう明かす。
「ドラ1だけに、最初は二軍スタートでもミスターはエースの球を受けさせて、プロのトップクラスの球を身をもって体験させようとした。しかし、このルーキー捕手は捕球こそできたが、返球しようとすると、下に叩きつけてしまったり、上に抜けてしまったりと、斎藤や槙原にうまく返せなかった。『今までテレビで見ていたスター選手の球を受けさせてもらって緊張してしまって……』と振り返ったが、あれは明らかなイップスの症状でした」
以降、強肩強打で二軍の主軸打者になったものの、捕手、内野、外野と守備位置は一定しなかった。
「この捕手に限らず、テレビで見ていた先輩に萎縮してしまい、新人の内野手がイップスになりやすい」(同前)そうだ。