3・11から7年…「Fukushima50」製作発表が意味すること
今年の日本映画界10大ニュースのひとつに入ると思う。2011年3月に起こった福島第1原発の事故を描く映画「Fukushima 50」(松竹、KADOKAWA配給)の製作が発表されたことである。待望久しかった。この題材は日本映画界にとって、避けてはならない大きなチャレンジと常々考えていたからである。
映画は事故後、原発に残って決死の作業に携わった約50人の話を中心にとらえる。原作は、門田隆将のノンフィクション「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」だ。監督は「沈まぬ太陽」を手がけた若松節朗。1、2号機原発の当直長を佐藤浩市、よく知られた吉田所長は渡辺謙が演じる。題材の骨格、監督起用、俳優の布陣ともに申し分がない。
今、日本の邦画大手はスケールの大きな社会派問題作をあまり作らなくなっている。ヒットするかどうか分からないといった興行上の問題もあろう。ただ総じて、あまり厄介な題材には立ち入らないほうがいいという消極的な姿勢が強いような気もするのである。
日本映画には輝かしい社会派問題作の系譜がある。かつての映画人は貪欲に、過去や現在のさまざまな政治的、社会的な問題を扱い、悪戦苦闘してきた。昨今、その伝統がぷっつり切れてしまっている。日本映画は、その領域に果敢に踏み込むべきではないのか。そう思っていた矢先の「Fukushima 50」製作のニュースだった。
もちろん、本作でやれることは限られるとは思う。ただ大震災から7年目にして、原発事故を本格的に描こうという邦画大手が現れてくれた。うれしいことではないか。どこまで、被災者、当事者の想像を絶する行動と心根に寄り添えるか。成功を祈る。